レビュー

編集だよりー 2007年4月23日編集だより

2007.04.23

小岩井忠道

 高校時代のバスケットボール部OB・OGで編集している「創部80年記念史」の校正作業に、週末の2日をほぼ費やした。

 ほとんどの編集作業を地元の後輩に任せっきりなので、校正が編集者にとって唯一の手伝いみたいなものである。とはいえ、すべての原稿に目を通すのは、なかなかの作業だ。創部(昭和3年)時のメンバーで唯一、存命の大先輩(95歳)から、今年3月に卒業したばかりの後輩たちまで、80年の歴史が詰まっている。

 「私たちが到達した結果は県大会のベスト16が最高だった。しかもそれは、最後の最後でやっと手に入れたものだ。こんなに練習しているのにどうして勝てないのか…」

 読んでいて、ホロリとしてしまうような原稿も少なくない。2年前に卒業したばかりで、何度か会ったこともある筆者(元女子部主将)の顔が浮かぶ。

 しかし、ベスト16でも立派。いまの高校のスポーツ界は公平な競争になっていないのだから。授業料や入学金を免除された特待生の問題で、いま大騒ぎになっているが、あれは野球だけに禁止ルールがあるためというではないか。野球以外のスポーツでは、特待生など一部の高校にとっては常識なのだろう。

 たまたま入学試験をくぐり抜けて来て、かつスポーツをやりたいという人間だけでチームを構成する。そんな県立進学高の運動部が、いまや簡単に勝てないのは当然だ。

 編集者たちが高校生のころは、東京など一部の地域を除けば、スポーツが盛んな私立高校などそんなに多くはなかった。わが郷里もあらゆるスポーツの上位校は県立高、それも歴史のある普通高校や商業高校が占めていたものだ。

 しかし、待てよ。ではその時代が、本当に公平な競争条件だったと言えるだろうか。昭和の初めから戦後しばらくの時代、高校でバスケットを教えられる教師が、一体どのくらいいたものか。高等師範学校(後の東京教育大学)を出た一握りのエリート教師くらいではなかっただろうか。現に母校の創設時メンバーでご存命の大先輩は、高等師範学校卒業で母校の教師、部の顧問を長らく務めた。その1年下の同じく創設部メンバーも、高等師範学校を卒業後、母校の教師、部顧問を務め、最後は校長でもあった。

 要するにある時期まで、良いスポーツ指導者を教師に持つ高校は限られており、その教えを受けた生徒が卒業後、先輩としてきちんと後輩を指導する。こうした伝統に支えられたからこそ、県立進学高をはじめとする伝統高の運動部が、各県のスポーツ界で大いに活躍できたのではなかっただろうか。

 そう考えると、われわれが高校生だった当時は、県内でむしろ有利な立場にあった、ということにほかならない。

 それぞれ赤字を入れた初稿を持ち寄り、日曜の夕方、母校で行った校正作業は、意外に手間取った。かぎ括弧の中の文の末尾に句点を入れた「……。」という表記の原稿が非常に多い。「活字メディアでは、かぎ括弧の場合、最後の『。』は入れない」と偉そうに講釈したら、「教科書はこういう表記です」。母校の教師をしながら後輩たちを指導している後輩から言われ、「エーッ!」。

 それやこれやで、すべての原稿を一通りチェックし終わったころは、もはや東京へ帰る電車の時刻だった。編集会議の後はいつも駅前の居酒屋で一杯のはずなのに…。後ろ髪を引かれる思いで特急に乗ると、午後10時というのにうれしい車内販売の声。

 弁当をつつきながら心地よくのどを潤し、しばし昔の思い出に浸った。

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