個人を批判するのが趣旨ではないので、ちょっと前の出来事にする。まさに緊急な対応が叫ばれているテーマで、その方面の権威と思われる方が講演をした会を傍聴した。
話の内容は、きっと当サイトでも紹介できるに違いない、とメモを取り始めたが、どうにもすんなり行かず、途中であきらめてしまった。
昔、支局で記者生活を送っていたときに、裁判所を担当したことがある。起訴状の文体は、読点(「、」)ばかり続き、句点(「。」)が、最後の1つしかないと知り、驚いたことを思い出す。何ページにわたろうと、起訴状の文面は1つのセンテンスなのだ。
昔からこれで通って来たということは、裁判官も弁護士も困らなかった、ということなのだろう。
マスコミ業界では、こんな文章は通用しない。逆に「。」が多ければ多いほど、つまり短い文が多いほどよいとされる。
ついでにもう一つ挙げれば、記事全体が「黒々としている」文章も、歓迎されない。平均的な文章に比べ漢字が多い、と一目で分かるからだ。漢字による表現が多すぎると、大体が堅苦しくて読みにくくなるという経験則なのだろう。
もっとも平仮名、片仮名が多ければいい、というものではないが。字数が増えてしまう上に、筆者の知的レベルを疑われる、といった別の問題が生じるから。
「漢字と日本人」(高島俊男著、文春新書、2001年)という本の中に、漢字のために「日本語の発達が止まってしまった」という刺激的な指摘がある。
大陸から漢字が入ってきた当時、日本列島には「かぜ」「さむい」といった目に見えたり、体で感じられる言葉はあった。しかし、「天候」や「気象」といったそれらをくくる抽象的な言葉はまだない。「礼」や「徳」といった高級な言葉もまた、漢字ごとそのまま受け入れるほかなかった。つまり、われわれは、もともと日本列島にあった「和語」(平仮名で書いても違和感はない)と、後から大陸から入ってきた「漢語」(漢字で書くのが自然)の混合である「日本語」を、今でも使っているというわけだ。
高島氏の指摘を知って以来、独り合点していることがある。同じ人物の主張や考えを理解しようとするなら、その人の書いた文章を読むより、話を聞いた方が分かりやすい。なぜなら、話し言葉の方が「漢語」が少ないから、と。
たまに、冒頭で紹介したような場面にも出くわした場合は、その人の話し方が“起訴状風”のため、脈が通じない。「漢語」は少なくても、句点(「。」)も少ないから、と考えることにしている。