古い話になるが、第二次大戦中の末期、日本にも「原爆研究」があった。「ニ号研究」なる、いかにもその筋らしい冠をつけた(事実、軍事機密だったが)研究だった。周知の事実となった昨今、研究の中身についても多くの調査研究が出回っているという。
が、こちらはそんな物好きではないから調べたことはなかったが、研究に直接かかわった人から話が聞けるとなると、ほっては置けなくなるたちではある。そんなわけで先ごろ、“退屈の虫”を鎮めがてら、くだんの話会に出かけた。
で、日本の原爆研究の経緯とはどんなものだったろう。以下、話会の資料からごく大ざっぱにピックアップすると——
- (1)1941年4月、旧陸軍・航空技術研究所が理化学研究所(現在の理研の前身9の仁科芳雄博士(1890〜1951年)に研究を委嘱。仁科博士ら理研研究員や民間人、軍人約30人が、「ニ号」特別研究班員として編成されスタート。研究場所は当時東京・駒込にあった理研。
- (2)1943年1月、理研の研究員が「ウラン濃縮度10%で11kg、同5%で32kgで、臨界量」との数値計算結果をはじき出す。
(3)1943年3月、ウラン(U235とU238の)分離法を検討の結果、熱拡散法を採用決定。
- (4)1944年11月、中性子照射法によるU235の濃度分析の結果、濃縮不成功。
- (5)1945年6月、ウラン濃縮失敗と確定。「ニ号研究」中止書を陸軍が出す。
話会の講師は、当時理研に入りたての研究者で、いま米寿が近いお方であった。終始、笑みを絶やさず、穏やかな話しっぷりからは、原爆研究が大まじめに行われたとはとても思えない雰囲気を漂わせた。
上記経緯からも、現在の専門家鑑定では「ニ号研究」は恐らく荒唐無稽であろう。米国の「マンハッタン計画」とは比べるべくもない。研究員数や原爆級からみたウランの低濃縮度などはちょっとおかしみを誘うのではないか。
当時、世界の研究者が天然に存在する最も重い元素、ウラン(原子番号92)に中性子を当てて93番以降の元素を人工的に作ろうと、しんどい実験競争を行っていた。仁科博士らは互角以上に世界と渡り合っていた。
理研には中性子を高速でウランに照射するサイクロトロンがあり、「ニ号研究」開始直前には、一回り大きい大サイクロトロンの建設計画が持ち上がっていた。その計画が「ニ号研究」の中に組み込まれたというから、仁科博士は結局、新元素生成やウランの核分裂実証といった基礎研究をやりたくて原爆研究を引き受けたのではないか、というのが講師の推測であり、話会全体もその気分を濃厚に共有していた。ヨカッタ、ヨカッタ。