中山道69次を歩き通す会は、先月、倉賀野まで着いたので、きょうは集合場所であるJR倉賀野駅から安中まで、約15キロというコースであった。
かぜ気味のときに麻雀をすると、てきめんに症状を悪化させる。若いころ何度も経験済みだが、15キロ程度を歩くのも、かぜを引いていると結構つらい、と初めて知った。安中市へ入る手前にある少林山達磨寺(高崎市)の長い石段が、こたえる。
総門の手前にある案内板に、見覚えのある名前を見つけた。寺の創設者が、領主、酒井雅楽頭(うたのかみ)と書いてある。
ホーッ。“伊達騒動の黒幕”が、こんな寺をつくっていたのか。ちょっとした発見をしたつもりが、帰宅後、「樅の木は残った」(山本周五郎著)を開いてみて、とんだ思い違いだったと気づく。
伊達騒動は、寛文11年(1671年)。少林山達磨寺の創設は、元祿10年(1697年)だ。
仙台藩を取りつぶそうとする幕府の陰謀に対し、身を挺して防ごうとした家老・原田甲斐。「樅の木は残った」の中で、甲斐の前に立ちふさがる非情な幕府大老として描かれている酒井雅楽頭は、「忠清」で、一方、少林山達磨寺をつくった酒井雅楽頭は、「忠挙(ただたか)」であった。
昔、酒田に住む旧友に庄内地方を案内してもらったことを思い出す。殿様の子孫というという人を紹介されたが、この人も酒井姓でかつ名前に忠がついていた。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』などを見たら、酒井家は、大老を出せる4家のうちの一つで、前橋藩主だった忠清と忠挙は父子という。庄内の酒井氏も、源は三河の出である「酒井家」の一族だが、「雅楽頭流」ではなく「左衛門尉流」で、こちらは出羽庄内藩主となったそうだ。
話はまた、昔の面影をかすかに残す中山道に戻る。今日の到着地、JR安中駅で解散、高崎駅で乗り換えて籠原駅まで来ると、都心を通り抜けて神奈川まで直行する籠原駅始発の湘南快速電車が、ホームの反対側に停車していた。
うとうとしている記者時代の先輩を起こして、乗り換える。10分くらい余裕があるので、この間に駅売店で酒とつまみを買い、一杯やりながらゆっくり帰ろうという魂胆だ。湘南快速の車両には、ボックス席がある。
途中から乗車してきた中年の女性が、同じボックスの席に座った。
「騒がしくて申し訳ありません」と、赤い顔(おそらく)で話しかけると、先方もどうやら夫が酒好きらしい。
「私は会津で、夫は薩摩出身。それでも仲良くやっているばかりか、鹿児島に住む夫の母親にもすっかり頼りにされている」などと機嫌よく応じてくれたため、話の輪は一挙に広がる。上尾駅で下車した女性を見送りながら、気持ちまで広くなるような気分になった。
そういえば、碓氷川にかかる鷹之巣橋を1列になって渡っていたとき、向こうから自転車でやってきた中学生くらいの少女も、すれ違うときに「こんにちは」とあいさつしていった。
都心にこもっていると、なかなかこういうことは経験できない。