レビュー

編集だよりー 2007年1月11日編集だより

2007.01.11

小岩井忠道

 日本での上演は25年ぶり2回目、というオペラ「アンナ・ボレーナ」を東京文化会館で鑑賞した。

 アンナ役は、“マリア・カラスの再来“というふれこみのディミトラ・テオドッシュウである。この作品は、1870年代にイタリア国内で上演された後、長い間埋もれていたのが、1957年、全盛期のマリア・カラスがスカラ座で歌い、再び脚光を浴びた、とパンフレットに書いてある。

 英国王が、王妃アンナの侍女を王妃に据えたいがために、策謀をこらし、王妃に密通の罪をかぶせ、さらに王妃の元恋人ともども死罪に追い込む。アンナは正気を失い、息絶える。

 パンフレットのあらすじを読んでこれで3時間40分も持つのかと、心配になったが、とんだ見当違いだった。一幕が終わったところで、会場は拍手がやまず、テオドッシュウをはじめ、出演者が何度もカーテンコールに、という状態であった。

 これほど聴きごたえがあるのに、なぜこのオペラが頻繁に上演されなかったのか。音楽に詳しくない編集者も、その理由が、よく分かるような気がした。アンナ役を歌いこなせる歌手など、そういないからだ、という。

 一緒に鑑賞した音楽好きの友人夫妻(夫は拍手をしすぎて手のひらが痛いと言っていた)と、会場を出た後、いっぱいやる。「器楽曲もそうだろうけれど、生のオペラのよさは、何はともあれ、声(音)量の違いが、はっきりわかることではないか」という話になった。

 再生装置で聴く音楽は、つまみ(ボリューム)を動かすだけで、声(音)の大きさはどうにでもなる。これって、音楽の本質的な部分を、ないがしろにしていることではないのか、というのが編集者の“いちゃもん”だった。

 「ラヴェルのボレロは、最初から最後までボリュームを変えずに聴いている」と友人が、すかさず同調してくれた(ただし夫人は、「隣近所のこともあり、大きな音は迷惑」と反論)。

 ともかく、IT化、デジタル化が進めば進むほど、価値が高まるものの一つが、オペラではないか。あらためて痛感した夜であった。活字情報の経済価値が、ネット社会の中で下がる一方のように見えるのと対照的に。

 この日の朝日新聞朝刊文化面に、岡田暁生氏の音楽評(6日に大津市で行われた公演を聴いた)が、載っていた。ほとんど、べた褒めに近いと思われる内容だ。テオドッシュウをはじめとする出演者が、気合い十分だったように見えたことも含め、会場があれほど盛り上がったのは、この新聞記事も相当、影響しているように思えるのだが…。

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