レビュー

編集だよりー 2006年11月19日編集だより

2006.11.19

小岩井忠道

 朝から肌寒く、雨もようの日曜日だったが、世田谷区用賀にある財団法人水戸育英会寄宿舎(通称・水戸塾)を訪ね、塾生の大学生たちとテニスを楽しんだ。

 水戸塾は、水戸徳川家の援助で、明治40年(1907年)に創立されたという長い歴史を持つ。発足時は、本所小梅町の旧水戸藩主、徳川圀順公の邸内にあった。徳川幕府崩壊、版籍奉還、廃藩置県という目にあったとはいえ、身包みはがされてしまったわけではないらしい。向学心に燃える郷里の若者たちの面倒を見る余裕はあった、ということだろう。

 以来、公的な補助金は一切、受けず、OBからの寄付や塾生からの寮費で運営してきた立派な歴史を持つ。

 本所小梅町の徳川邸が関東大地震で焼失したため、大正14年(1925年)に渋谷区猿楽町に移る。当方が入寮したのは、こちらである。渋谷駅から歩いて7、8分の至近距離にありながら、静かな住宅街の中にあった。入寮して間もなく、先輩に連れられて初めて渋谷のバーに入ったときの緊張感が、忘れられない。

 建物の老朽化が激しいため、土地を売却、用賀の地に新しい寄宿舎を建てて移ったのが、大学2年のときだった。

 さて、テニス大会に押しかけ参加するのは、春に続いて2回目。清涼飲料水を差し入れて、後輩たちに顔を売っておくのも忘れない。都心のテニスコートというのは、そうそうないのである。毎週末、長年、働いていた通信社の研修施設のコートで汗を流しているが、これも間もなく、できなくなる。別の場所に建設中の新しい研修センターが完成すると、こちらは取り壊しの運命だ。そして、新しい研修センターには、テニスコートはない。

 毎週、テニスで汗を流すという習慣も風前の灯。そうなったら水戸塾のコートを、ときどき使わせてもらおうか、という魂胆もある。

 ところで、元勤務先の新しい研修センターには、なぜテニスコートがつくられなかったのか? 「テニスコートなど作って何もいいことはない。周辺住民の同意を取るだけでも大変だ」というコンサルタントの助言が、決め手になったとも聞く。

 しかし、コンサルタントというのは、施設が首尾よく建設されるまでしか考えていないのでは。そんな役割の人間が、以後何十年も使われる施設のありように、あまりに発言力を持ちすぎるというのは、いかがなものだろう。

 ちなみに、水戸塾も、今の寄宿舎が建てられて41年になり、建て替えの話が出始めている。しかし、テニスコートをつぶそうなどという声はないようだ。繁華街に近い渋谷にあったときも、クレーの立派なテニスコートはあった。

 創立99年という組織と、終戦の年に生まれた組織の歴史の違いというものだろうか。

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