レポート

「自分らしさ」とは? スポーツ、美学、生命科学で活躍する3人が対話 サイエンスアゴラin健都

2025.12.17

長崎緑子 / サイエンスポータル編集部

 科学技術振興機構(JST)の社会技術研究開発センター(RISTEX)は、科学と社会をつなぐ対話の場「サイエンスアゴラin健都」を11月16日、大阪府摂津市のエア・ウォーター株式会社で開催した。健康・医療を核にまちづくりを進める北大阪健康医療都市(健都)における「健都フェス」の一環。元陸上選手の為末大さん、美学者の伊藤亜紗さん、バイオベンチャーCEOの福田真嗣さんが、それぞれスポーツ、美学、生命科学の視点から「自分らしさ」について対話を重ねた。

会場はほぼ満席で、立って3人の対話に耳を傾ける人たちも(11月16日大阪府摂津市)
会場はほぼ満席で、立って3人の対話に耳を傾ける人たちも(11月16日大阪府摂津市)

「守破離」の3段階で自分だけのトレーニングに 元陸上選手・為末大さん

 世界陸上選手権の400メートルハードルで銅メダルを獲得し、現在、スポーツ・教育事業を手がける株式会社Deportare Partners代表の為末大さんが「自分らしさ」について口火を切った。

 現役の時、8割がジャマイカ人のチームに参加したことがある。自分は日本の選手の中ではよくしゃべる方だったが、おしゃべり好きなジャマイカの選手からは「日本から無口なヤツが来た」とレッテルを貼られてしまった。自分らしさ、社会における自分の立ち位置は、住む場所や環境によって変わるものだ。

 陸上界では100メートルを10秒3で走る選手は「足が速くない」という。日本選手権に出られないから。でも、陸上界の外に出れば、とても足が速いといえる。離れてみることで、自分の違った姿が見えてくるのではないか。


陸上選手としての経験や現在の活動を話す為末大さん(11月16日大阪府摂津市)
陸上選手としての経験や現在の活動を話す為末大さん(11月16日大阪府摂津市)

 スポーツの世界では、自分らしさはとても大切なことだ。茶道や武道などの修行において「守破離(しゅはり)」という言葉があるように、スポーツでも最初は習った型を守り、だんだん上手になると工夫をして型を破り、「離」の段階になると周りの選手との違いを踏まえたトレーニングを考える。

 100メートル走の世界記録を持つウサイン・ボルト氏を取材したことがある。小学6年生の時に身長が186センチあったという。手の長さが私の1.5倍あり、足の長さも違う。足の制御のしやすさに関わる肩幅も広く、少し肩を回転させるだけで足が前に出る。一方で、骨盤に比べて肩幅の狭い女子選手は、腕を伸ばして左右に大きく振るフォームの方が足を前に出しやすい。周りの選手との違いに気づくようになれば、トレーニングがパーソナライズされ、「自分にだけ通用する練習」になる。

 そして今、人に教える場合には、「自分には通用しないけれど、多くのみんなに通用する技術」を切り分けていく作業を悩みながらしている。

自分の心身に向き合い、「私らしい健康」を 美学者・伊藤亜紗さん

 人間の感性や美的判断の原理を探求する文学博士で美学者である東京科学大学教授の伊藤亜紗さんは、身体感覚や感性といった視点で考える自分らしさを「感性と自分らしさ」と題して紹介した。

 病気の名前は無数にある。同じように健康にもいろいろあって、それぞれに名前が付いていてもいいのに、細分化されておらず「健康」でひとくくり。しかし本来、病気と健康は単純な対立概念ではないはずだ。自分自身の体や心などに向き合いながら、「私らしい健康」を探索することができる。

 そもそも「自分らしさ」には二つの種類があるのではないか。一つは、基準としての私らしさだ。たとえば、自分に似合う洋服を選ぶというように、何かを選択する場合である。もう一つは、出会いとしての自分らしさだ。「これもまた自分らしい」と発見する感覚は、特に病気から回復する過程においては重要となる。なぜなら、回復する過程は、病気になる前の自分に戻ることではなく、病気を経験した新しい自分のあり方に出会うことに他ならないからだ。

 感性が関わるのは、二つ目の「出会いとしての自分らしさ」である。感性は、初めて出会う時のように、ものを経験する力だ。過剰なダイエットによって摂食障害に陥ってしまった人が回復へと向かう過程では、食べ物を「美味しい」と感じられる感性の役割が不可欠になる。それは、自分の体の声を聞くということにつながる。

 体の声という意味では、欲望に気づくというのも、新しい自分との出会いになる。障害や病気とともに生きる人の欲望は抑圧されがちだ。ケアを受けていると、「こんなことを要求したら嫌がられるのではないか」と忖度してしまい、どうしても「適切な欲望」と「不適切な欲望」ができてしまう。こうした抑圧的な力をいかに丁寧に取り除いていくかも、「自分らしさ」を考えるうえでは重要だろう。

「感性と自分らしさ」について語る伊藤亜紗さん(11月16日大阪府摂津市)
「感性と自分らしさ」について語る伊藤亜紗さん(11月16日大阪府摂津市)

腸内細菌の個性に合わせ食事を最適化 バイオベンチャーCEO・福田真嗣さん

 生命科学の分野からは、バイオベンチャーの株式会社メタジェン代表取締役社長CEOで慶應義塾大学・先端生命科学研究所特任教授の福田真嗣さんが、腸内細菌から考える「自分らしさ」を話した。

 腸内細菌は人体の細胞の総数より多く、腸内で得た栄養から様々な物質を作る。その成分は腸にとどまらず、全身の健康にも関わっている。たとえば、大学駅伝でトップレベルの青山学院大学陸上競技部の選手の便を調べたところ、ある細菌が腸内にたくさんいて短鎖脂肪酸を産生していた。そのおかげで持久力がアップしていることが、動物実験や臨床試験で明らかとなった。また、腸内細菌が作る代謝物質によって脳内で神経伝達物質ドーパミンの分解が抑制され、やる気を持続させられることも分かってきている。便は、そんな腸内細菌を含む有用なもの。「茶色い宝石」と言える。

 腸内細菌の集団である腸内フローラは個人差が大きい。それを逆手に取り、腸内環境タイプという「自分らしさ」を考慮した食事をすれば、短鎖脂肪酸が効率的に産生されて健康につながる。2023年ごろから、シリアルやドリンクで個別最適化した商品が出てきている。

最新の研究成果などを紹介する福田真嗣さん(11月16日大阪府摂津市)
最新の研究成果などを紹介する福田真嗣さん(11月16日大阪府摂津市)

 健康な人の便が、病気の人を救う可能性もある。潰瘍性大腸炎という難病の患者に、健康な人の便に含まれる腸内フローラを移植する「便移植」だ。これまで先進医療Bとして37人を治療し、症状がほとんど治まった状態(寛解)になる率が45.9%になっている。

 腸内環境に基づく個別最適化された健康を手に入れるほか、健康な人の便を提供してもらう「献便」が広がることで、自分の健康が誰かの健康につながるかもしれないという新たな医療・ヘルスケアの創出になる。

「なりたい自分」になるための努力と工夫

 講演が終わると、登壇者3人の対談が始まった。「“わたし”とは(何者か)?」という問いが投げかけられた。

 検便ならぬ「献便」に興味をもった為末さんが「病気が治るとはいえ、他の人の便を自分の体内に入れるというと『えっ』という意識が芽生えてしまう」と切り出すと、福田さんは「健康な人の便でも、移植できるかどうかの基準に照らし合わせると、現状では5%程度しかパスしない。また患者を救うだけでなく、健康な人が病気にならないように気をつけて生活してもらうためにも、献便には意味がある」と応じた。

 伊藤さんは「吐いたつばを再び飲むのはためらわれるのと同じで、『けがれ』の考え方が関わっていると思う」と、自他の境界をどうとらえるかという文化面から考察。「科学的にいくら有効であっても、便はトイレではすぐ流すべきもの。みんなが便を『茶色い宝石』と認識する世界というのは、文化の何かを根本的に変えることになる」と述べた。

 文化を変えずとも、腸内細菌を自分で変えることはできるのか。遺伝的要因と環境要因とどちらが関係するかについて福田さんは「遺伝より環境によって変わる。住んでいる国ごとに腸内フローラの違いを調べると、米国と和食文化が残る日本には違いがある。日常的な食事で腸内フローラは大きくは変わらないが、ベジタリアンの人が肉を食べると腸内フローラの構成は大きく変わるなど、食生活にあった細菌が腸にいるようだ」と語った。

 伊藤さんは「人って、型から外れるのは難しい。なりたい自分になるために、食生活をはじめとしたルーティンを変えるには、かなりの努力がいる」という。為末さんは「スポーツで成長する場合、最初は『ああいう選手になりたい』という理想の型から入るが、ある一つの理想をずっと見ていると、収束して想定内になってしまう。ルーティンを真面目に守るのではなく、遊びというか、毎日ちょっと違った工夫をすることも必要だ」。福田さんは、衛生環境が悪いとされるインドの方が日本よりも人間の腸内に大腸菌の仲間が多くいることを例に挙げ、「腸内フローラにも多様性があることで、その生態系を維持する頑健さが増す。はずれ値もその多様性に寄与している」と応じた。

自分らしさについて笑顔で語り合う為末さん、伊藤さん、福田さん(11月16日大阪府摂津市)
自分らしさについて笑顔で語り合う為末さん、伊藤さん、福田さん(11月16日大阪府摂津市)

多様性の時代、自分を最適化して他者と対話を

 それぞれが持つ自分らしさと多様性については、会場から「他者の自分らしさを尊重するにはどうすればよいか」という質問が出た。為末さんはパラリンピアンと関わる経験から、「障害によって、自分は何ができるか、何ができないか、という自己紹介を提示してもらうとうまくいく」と答えた。

 伊藤さんは「多様性の時代と言われ、『自分』というものが言語化できて、プロファイルで整理するものとして単純化されすぎている。自分とは複雑なもので、記述できないところがあることを認識することも大切では」と述べた。

 福田さんは、腸内フローラの多様性が外的要因への強さになることを挙げ、「多様であるということは、ある人とある人が違うということ。共感しなくてもお互いに理解をすることで尊重できると思う」。

 自分の置かれた環境の中で個別最適化を進めながら、パーソナライズした他者と理解し合うためには対話が大切。対話こそが、それぞれのウェルビーイングにつながる――。3人の対談は、そんな結論でまとまった。

 運動・哲学・食・感性といった分野を横断した「自分らしさ」と、健やかな暮らしの未来について語り合うトークセッションと聞き、「その道の専門家が話す哲学なんて難しいのでは」と構えて参加したが、講演も対談も具体例が満載で、楽しく「自分らしい取材」ができたと思う。

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