レポート

京大iPS研15年の歩み【前編】「シャーレの先」に見えるのはどんな景色?~公開シンポから

2025.07.22

室井宏仁 / サイエンスライター

 皮膚や血液の細胞に特定の因子を導入して作製するiPS細胞(人工多能性幹細胞)。その発見からおよそ20年が経過するなかで、医療応用に向けた研究が本格化している。現在、日本国内ではパーキンソン病やI型糖尿病など、14の疾患についてiPS細胞を用いた臨床試験が実施中であり、一部では国による承認申請に向けた準備も進む。

 iPS細胞の基礎・応用研究をリードする国内の主要組織の1つが、京都大学iPS細胞研究所(CiRA)だ。設立から今年で15年を迎えるCiRAでは、アウトリーチの一環として一般市民を対象とした公開シンポジウムを継続的に実施している。今回は、5月10日に名古屋市で行った「iPS細胞と挑戦者、シャーレの先にみる景色」より、iPS細胞の研究と医療応用の現在地、そしてその将来を展望した。

公開シンポジウムの会場となった中日ホール(左)。ホールの外では、CiRAの研究者が自身の研究について紹介するコーナー(右)なども設置され、終日盛況だった(5月10日、中日ホール)
公開シンポジウムの会場となった中日ホール(左)。ホールの外では、CiRAの研究者が自身の研究について紹介するコーナー(右)なども設置され、終日盛況だった(5月10日、中日ホール)

パーキンソン病の症状を改善

 シンポジウム冒頭では、CiRA所長を務める髙橋淳(たかはし・じゅん)さんが、「iPS細胞研究の現在地と次なる一歩」と題して、CiRAの歩みと自身の研究内容を紹介した。髙橋さんはまず、iPS細胞の医療応用について、iPS細胞から作製したさまざまな細胞を移植する「再生医療」と、それらを用いての「薬の開発」の2つの方向性があることを説明。前者の例として、今年4月17日に治験結果を発表した、パーキンソン病の治療を示した。

 そもそもパーキンソン病とは、脳内で情報伝達に関与する神経細胞が死んでしまい、神経伝達物質であるドーパミンが減少する疾患。これによって神経細胞の情報伝達に支障をきたし、全身の運動機能が低下してしまう。したがって、iPS細胞から作った神経細胞を移植し、ドーパミンの量を回復することが、有効な治療戦略となり得る。

 治験では、参加した患者7人全員で重い副作用は観察されなかった。また、そのうち2年間の経過観察を行った6人ではiPS細胞由来の神経細胞が生着し、ドーパミンを産生していることを確認できた。さらに、6人中4人でパーキンソン病の症状改善がみられたという。この結果を受け、「より多くの医療機関において、より多くの患者を対象とした臨床試験を来年中に実施し、治療の有効性を詳細に調査したい」(髙橋さん)としている。

 さらに、髙橋さんは今後の治療戦略として、(1)樹立しやすく分化能力が高い次世代幹細胞の開発、(2)生着率の向上などの移植細胞の機能強化、(3)免疫反応(拒絶反応)が少なく移植効率が高まるような移植環境の整備――の3点を列挙。そのうえで「遺伝子治療や薬物治療、リハビリなどの既存の医療技術とも組み合わせ、より安全で効果的な次世代医療を実現したい」と語った。

講演する髙橋淳CiRA所長・教授(5月10日、中日ホール)
講演する髙橋淳CiRA所長・教授(5月10日、中日ホール)

わずかな血液で個別化医療が可能に

 続いてCiRA助教の北川瑶子(きたがわ・ようこ)さんが「iPS細胞で病気や体質の違いを理解する」と題して講演した。北川さんはiPS細胞を用いて、人間の難治性疾患、特に遺伝子多型を原因とする多因子疾患の研究を行っている。遺伝子多型とは、個人間でのDNA配列の違いのこと。一般的にその違いはごくわずかだが、最近になって疾患の発症リスクや進行度合い、薬の効き方などに関係することが明らかになってきている。

 北川さんによれば「どんな人間からでも、1ミリリットルほどの血液さえあれば作製できる」iPS細胞は、遺伝子多型の機能検証に非常に適しているという。患者から直接採取する臨床検体では、食生活や加齢、基礎疾患などの影響を排除できない。一方で、患者由来のiPS細胞から作った細胞を使えば、純粋な遺伝子変異の影響だけを調べることが可能だ。この特徴を生かして、疾患のメカニズムの特定や、治療薬の候補の絞り込みなどが進められている。

 一例として北川さんは、COVID-19の重症化リスクに関する研究を挙げた。パンデミックに伴う大規模なPCR検査に伴い、免疫や肺の機能に影響を与える遺伝子多型が多く見つかった。そのなかには、体内に侵入してきた病原体から私たちを守るマクロファージの機能にかかわるものもある。北川さんは、iPS細胞由来のマクロファージを用いて、COVID-19の重症化に関与する遺伝子多型がマクロファージにどう影響するかを調査。その結果、リスク多型をもつマクロファージでは、多型をもたないものと比べ、ウイルスを除去する働きが不十分であることがわかったという。

 「遺伝子の小さな違いに伴うリスクを理解できれば、副作用や医療にかかる負担を軽減できる可能性が広がる」と北川さん。今後は、より多くの人々にかかわり、社会的要請も大きい多因子疾患に関する研究を進めたいという。そして「個人の体質や疾患のリスクに合わせた、新しい個別化医療を実現したい」と目標を語った。

講演する北川瑶子CiRA助教(5月10日、中日ホール)
講演する北川瑶子CiRA助教(5月10日、中日ホール)

「分子のハサミ」と「ウイルス」で難病に挑む

 「DNAエンジニアリングで難病に挑む」と題し、遺伝子変異を原因とする難病の治療法について講演したのは、CiRA准教授の堀田秋津(ほった・あきつ)さん。堀田さんは、身体を動かす骨格筋が徐々に痩せ細り、呼吸機能の低下や嚥下障害などを呈する筋ジストロフィーという疾患の研究に携わっている。この疾患は、筋肉を動かすのに必要なジストロフィンというタンパク質を作る遺伝子が先天的に変異し、機能を失うことで起こる。堀田さんは、根治療法が見つかっていないこの疾患に、遺伝子編集という技術で挑んでいる。

 遺伝子編集で鍵となるのは、1個のヒト細胞あたり2メートルもの長さのDNAの任意の箇所を切断する酵素だ。堀田さんの研究グループでは、この「分子のハサミ」を使い、筋ジストロフィー患者から作製したiPS細胞由来の筋肉細胞の変異部位を削除。その結果、この筋肉細胞でも正常細胞と同様に、ジストロフィンが作られるようになった。また、複数箇所を同時に改変できる特徴を活かし、移植時の拒絶反応にかかわる遺伝子部位を削除したiPS細胞の作製にも成功しているという。

 ただ、「分子のハサミ」を全身の筋肉の細胞にどう届けるかは大きな課題として残っている。解決方法として、堀田さんが注目するのがウイルス。ヒトなどの宿主の細胞に取りこまれて数を増やすウイルスに、酵素を運んでもらおうというわけだ。堀田さんらはウイルス本来のDNAをほぼすべて遺伝子編集用の酵素に置き換えた「ウイルス様ナノ粒子」を開発。これにより、筋肉へ注射するだけで細胞の遺伝子変異を直接治療することが可能という。現在は、既存のワクチンなどを参考にしてより副作用の少ない方法の検討が進んでいる。

 現状、根治が困難な難病の半数以上は遺伝子異常が原因とされる。これを踏まえて堀田さんは「遺伝子変異の修復は、難病に打ち勝つために必要な技術」と強調する。一方で、過去の研究からは、誰もがゲノムDNAに疾患に関連した遺伝子変異を1カ所以上もっていることが明らかになっている。堀田さんは「遺伝子変異とは人間の多様性と適応性の源ともいえる。誰もが変異をもつ以上、ある疾患の患者であることは偶然の産物。むしろ私たち全員が当事者とも考えられるのではないか」と述べて、講演を締めくくった。

講演する堀田秋津CiRA准教授(5月10日、中日ホール)
講演する堀田秋津CiRA准教授(5月10日、中日ホール)

技術革新でコストは抑えられるか?

 講演の終了後には、登壇した3人の研究者によるトークセッション「3人の研究者と考える、iPS細胞研究の未来」が行われた。セッションはCiRA国際広報室の和田濵裕之(わだはま・ひろゆき)さんの司会進行のもと、事前に参加者から募集された質問に回答していく形式で実施された。

 特に高い関心が寄せられたのは、iPS細胞を用いた治療のコストについて。「iPS細胞治療の費用はどのくらいでしょうか? 安価で治療を受けられる時代が来ますか」という質問に髙橋さんは、まだ現状でははっきりとはしないことを前置きしたうえで、ざっと見積もっても千万から億円単位になる可能性を指摘。そのうえで「細胞移植自体にお金はかかるかもしれないが、治療後の薬や介護にかかる負担を減らせる可能性がある。加えて、今後の技術革新によってどんどんコストが抑えられていくのではないか」と指摘した。

 ここで堀田さんが、実際の費用に関するケーススタディとして、別の遺伝子治療であるCAR-T細胞療法の例を提示した。CAR-T細胞療法とは、患者からがんを攻撃するT細胞を採取し、機能を高める遺伝子変異を施してもとの患者に戻す、というもの。現在の薬価は3600万円ととても安価とはいえないが「日本では患者さんの3割負担になっているのに加え、高額医療補助制度が使用できるので、実費はさらに少額に抑えられる」(堀田さん)。iPS細胞治療も同様に、仮に高額なものになったとしても、お金がないから受けられないというケースはそれほどないのではないか、と予測した。

 北川さんは、iPS細胞を使って新しい薬を探す「iPS創薬」は、従来に比べて新薬開発にかかるコストを節約できるのではないかと指摘。「患者さんの細胞を使うので、効果がありそうな化合物をある程度予想できる。ある疾患の治療に使われてきた薬を、別の疾患にも適応するドラッグリポジショニングとも組み合わせると、非常に効率よく治療法を開発できる」と、期待を込めた。

 また、「iPS細胞を活用した治療が普及するためにはどんな課題があるのですか?」との質問には、希少疾患を対象にした研究を進めている堀田さんがまず応答。自身の研究が基礎段階であることを前提に「大学の研究者だけでは、実際に投与する薬は作れない。また、患者さんが100~1000人単位の疾患の場合、利益を追求する企業としては、実際に治験をスタートするまでに至らないケースもある」と説明した。

 これを受けて髙橋さんも、広く一般に治療が届くようにするには、企業の力が必須であることを指摘。そのうえで「企業がある程度リスクなりコストをかけるのかどうかは、国全体の力が試される。どんな病気であっても税金を使って直そうとするのか、あるいはひとまず利益が出る分野に集中するのかは、国民の選択によるだろう」と述べた。

シンポジウム後半のトークセッションでは、既存の治療法との兼ね合いやコスト面に関する質問が寄せられた(5月10日、中日ホール)
シンポジウム後半のトークセッションでは、既存の治療法との兼ね合いやコスト面に関する質問が寄せられた(5月10日、中日ホール)

国民のコンセンサス形成も重要

 思い起こせば、筆者がiPS細胞作製成功のニュースを聞いたのは、中学生の時だった。理論上あらゆる細胞に分化できる「万能細胞」によって、どんな疾患も治せる未来の到来を本気で夢見た記憶がある。以降、さまざまな媒体を通じ研究の進展を見聞きしてきた者として、実際の医療応用への道筋がはっきり見えてきたことに、改めて深い感慨を覚えた。

 ただ、現段階ではまだまだ高額で、治療法としては手が届きにくいものであることは否めない。研究の進展によるコストの低減ももちろん期待されるが、技術としての普及については、国民のコンセンサス形成も重要になってくるだろう。iPS細胞やその応用技術を「自分ごと」として受け止められる人がどれだけ増えるか。そしてその機運を醸成できるかによって、シャーレの先に見える景色も変わってくるに違いない。

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