レポート

「学問にとって学会は本当に必要なのか?」シンポジウム

2018.09.20

保坂直紀 / サイエンスポータル編集部

  「この画期的な研究成果は、〇×教授が学会で発表なさることになっています」。医療ドラマなどで、学会発表がこのように権威づけの道具として扱われるのを、ときどき目にする。社会学などではしばしば、ある事柄がテレビドラマや映画でどう描かれているかを分析し、それに対する世間一般の意識を探ろうとする。それにならえば、いまも学会は、世間からは権威の象徴とみられているらしい。では、その学会を構成する当の研究者たちは、学会をどうみているのか。京都大学で9月13日に開かれたシンポジウム「学会を問う」(京都大学学際融合教育研究推進センター主催)をレポートする。

「学会」は業績蓄積の場

写真1 京都大学で開かれた「学会を問う」シンポジウム
写真1 京都大学で開かれた「学会を問う」シンポジウム

 シンポジウムの副題は「学会って意味なくない?」。刺激的だ。研究者にとって、所属することがあまりにも当然のことになっている「学会」の意義を、いまあらためて考える試みだ。企画した京都大学学際融合教育研究推進センターの宮野公樹(みやの なおき)准教授はその趣旨を、「学会を否定するわけではない。学術の世界はいま、身分による上下の分離、分野間の分離が激しい。そのなかで、我々は学会を通して一所懸命に何をやっているのか。それを問い直したい」と説明した。

 学会は、その分野の研究者たちが年会費を払って会員となり、年に1〜2回の研究発表大会を開いて最新の研究成果を発表したり、論文誌を発行して会員の論文を掲載したりする。「学会発表」というのは、研究発表大会での発表を指している。学会発表や論文誌への掲載は、その研究者の正式な業績となり、昇進や転職の際の重要な判断材料として使われる。

学会発表は、たんなる「祭り」なのか

写真2 さまざまな分野の研究者が、前方のスクリーンに映し出されるSNSのコメントなどを見ながら、自分たちの学会の現状について報告した。
写真2 さまざまな分野の研究者が、前方のスクリーンに映し出されるSNSのコメントなどを見ながら、自分たちの学会の現状について報告した。

 シンポジウムでは、文学や社会学、農学、医学、工学など11分野の研究者が報告者となり、それぞれの所属学会の現状と問題点を示し、議論する形で進められた。

 論点のひとつは、学会の大会に関する点だ。学会の大会には、発表した成果について、ふだんは顔を合わせることのない研究者の批判を仰ぎ、さらに研究の精度を高めていく役割がある。それが形骸化して、たんなる「お祭り」になっているのではないかというのだ。「日本医学会」「日本薬学会」などの大きな大会になると、参加者が1万人規模、発表件数は数千件に及ぶ場合もある。一人の研究者が全体を見渡して広く情報収集することなど、とてもできない。参加者は大勢いても、発表はたくさんの小部屋に分かれ、そこに集まるのは、いつも話をしている少数の顔見知りばかりということもあるという。これでは新たな発想に触れる機会にならない。また、生命科学系の報告者は、「大会での発表より論文のほうが価値が高いので、学会発表は、すでに論文として公表された内容になる。新しい成果を学会発表で知ることはあまりない」と述べた。

 とくに理系の学会では、口頭発表の持ち時間が「発表8分、質疑応答2分」のように短く制限され、大きな紙に内容を印刷して掲示する「ポスター発表」でも、読み切れないほどの内容を細かい字でびっしりと書き込むことが多い。進行中の研究を磨くためにじっくりと批判を聞くはずの学会発表がその意味を失い、たんに「参加して発表した」というアリバイづくりの場になっている。「あれは『村の祭り』なのだ」という指摘もあった。

学会は消滅せずに増え続ける

 細分化された学会の数の多さも問題になった。ある分野の研究がブームになると、関連する学会も多くできる。新たな研究手法が生まれれば、それに応じた新しい学会ができる。その学会の役割に陰りがみえてきても、自分が学会長の間はつぶしたくない。いきおい学会の数は多くなる。学会に所属するには会費を払う必要があるので、とくに若手は、その費用だけでもばかにならない。経済系の報告者は、「社会の課題を解決しようとして新しい学会が生まれ、解決したらその学会は解散。そうなるはずなのに、学会はつぶれない」という。「なぜそこまでして『学会』を守ろうとするのか」という発言も聞かれた。

 また、理学系の報告者は、「研究して学会に参加するという当たり前のシステムのなかにいると、自分はいま何をやりたいのかがわからなくなっていきがちだ」という。また、学会発表は、研究を始めたばかりの大学院生のデビュー戦となってしまい、その分野の方向性や革新的な研究などに関する学術的に重要な議論は、参加している大御所たちが「密室」で進める。オープンなはずの学会が、かならずしもそうなっていない。そして、学会の「少子高齢化」も問題になっている。任期制の職を繰り返して食いつなぐのが当たり前になった現在の研究環境のなかで、分野によっては研究を志す大学院生が大きく減っているからだ。

「学会」なのか「学問」なのか

 学問の知を作る中心にあるはずの「学会」。インターネットなどで論文をはじめとする科学情報がめまぐるしく行き来する現在、報告者の発言からは、知の集積場所としての学会が、その行き場を見失いつつあるように聞こえた。

 だが、現実に学会が、一定の実務的な役割を果たしていることも、また確かだ。「大学院生のデビュー戦」は、裏を返せば、学会のもつ重要な役割ともいえる。経験を積んだ研究者は、学会の場で若手に厳しい質問を浴びせ、その成長を応援する。ベテランにとっても、その若手がどれくらいの能力と可能性をもっているかが、大会での研究発表を聞けばよくわかる。大学などで若手研究者を採用しようとする際にも、公募していきなり面接で力量を推し量るより、研究発表を聞いておくほうがはるかに確実だ。また、農学系の報告者は、「ある特定の生物についての研究は、世界的な論文誌に載せるより、国内の論文誌のほうが適切な場合もある。それも国内の学会の大切な役割だ」という。「認定医」「専門医」などを認定する医学系学会の職能集団としての機能も報告された。

 今回のシンポジウムは、学会が抱える問題点を話し合うのが目的で、そのプラスの意義についての議論にはあまり時間を割くことができなかった。宮野さんは「研究イコール学問ではない」という。研究して新しい成果が出れば、それを学会で発表したり論文にまとめたりすることになる。それならば学会は「研究」のためのもので、はたして「学問」に奉仕しているのかという問いだ。これについて薬学系の研究者は、「学会は『国の研究費を使ってこういう成果が出ました』と報告することに終始してしまう。『なんのためにそれをやるのか』を議論する場にはなっていない」という。研究者にとって学会は空気のように当たり前の存在で、学会それ自身を、そして学問を再考する場にはなっていない。宮野さんは「学会は作り物にすぎない。私たちは、もっと学問の話をしなければいけないのではないか」と締めくくった。

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