レポート

シリーズ「日本の安全と科学技術」ー 「地震防災」第4回「「やらずぶったくり」では恥ずかしい」

2012.06.13

土岐憲三 氏 / 立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長

住民側からの文化遺産防災

土岐憲三 氏(立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長)

 阪神・淡路大震災をきっかけに、私は「文化遺産防災」の取り組みを始めました。官民学のうち、最初に始まったのは民からです。1997年10月に「地震火災から文化財を守る協議会」を作りました。会長は先だって亡くなられた小松左京さん、副会長には瀬戸内寂聴さんと大震災当時に神戸大学長だった新野幸次郎さんにお願いしました。さらに2001年8月にNPO法人「災害から文化財を守る会」を設立し、防災シンポやフォーラムを開催する中で、冷泉家のご当主やお寺の管長、哲学者、小説家の杉本苑子さんや平岩弓枝さん、さらには映画監督の篠田正浩さんや滋賀県知事の嘉田由紀子さんなどといった多くの方々から基調講演として大変いい話をいただいております。学術の分野でも、立命館大学が国と予算を折半して、2003年7月に「歴史都市防災研究センター」を設立し、私がセンター長として歴史都市の文化遺産を守るための様々な防災研究を行っています。

 国にも積極的に働きかけたおかげで、2003年6月には内閣府に「災害から文化遺産と地域をまもる検討委員会」が発足しました。国も文化遺産の防災の重要性を認識し、翌年まとめられた報告書の別紙には、防災基本計画などにおける文化遺産の防災対策の位置づけを強化し、関係省庁が各地での事業支援を行っていくべきことなどが明記されました。これを受けて国土交通省も、公園の地下に貯水槽を作ってもよいと制度を改めました。それ以前は、公園を維持管理するための必要最小限の水以外、蓄えることはできなかったのです。さらに2008年4月には内閣府や国土交通省、消防庁、文化庁による「重要文化財建造物の総合防災対策検討会」が設けられ、文化財の総合的な防災対策を促進するための方向性がまとめられました。

 こうした私たちの活動には、陰ながら、地元の京都市が骨を折ってくれました。というのは、「災害から文化遺産と地域をまもる検討委員会」が発足後、地震後の火災から歴史的建造物を守るためのケーススタディの1つとして、京都市東山区の清水寺、産寧坂周辺から高台寺、八坂神社周辺にかけての地域で耐震型防火水槽を地下に作り、配水管を整備する事業が2006年度から5カ年計画で進められました。そもそもこの計画は、私たちのNPO法人「災害から文化財を守る会」と地元住民とが互いに膝を突き合わせて練ってきたもので、京都市に提示したところ、すんなりと受け入れてくれました。実際には京都市が陰で支えていましたけど。さらに京都市が国に予算陳情を行い、市と国の文化遺産防災対策事業として認められたのです。しかも5カ年の事業費約10億円のうち国が負担したのは初年度だけで、あとはすべて京都市が出しました。

 申し上げたいのは、以前の事業ならば「国が自治体にしてあげた」あと「自治体が住民にしてあげる」という流れでしたが、この場合は「地元住民やNPO法人が自治体を動かし」てから「自治体が国を動かす」という逆転の流れが実際に起こったことです。さらに、私たちのNPO法人のやっていることが「国の行政行為の末端の仕事だ」として、近畿地方整備局が資金援助をしてくれました。その金額の多寡ではなく、国が私たちの活動の面倒を見てくれたことが大きなことです。何しろ、コピー代すら自分たちの財布から出している状況に、国が「助けてやろう」というのですから。こうした新しい循環あるいは意識の改革が、この国で現実に起こっているのです。

清水寺から八坂神社間の防災水利システム

 この事業では、耐震型防火水槽1基が高台寺公園の地下に作られました。貯水量は1500トン。学校にある25mプール4、5杯分の水が公園の地下にたまっています。何十年に1回の地震だけで利用するのはもったいないので、通常の火災が起きたときに消防車が使える消火栓も作ってあります。さらに地域住民が道路の打ち水や自分のところの庭でも利用できるようにと、手押しポンプも設けてあります。

 この耐震型防火水槽の設置のために、高台寺の近くの京都市の防災公園に続いて清水寺が敷地の提供を申し出てくれました。その防火水槽の水は清水寺からは低いところにあるので、清水寺自身は使えないのですが、「それでもいいよ」とのことでした。清水寺に作られた防火水槽は付近一帯では一番高いところにあります。そこからの送水は重力に任せる自然流下です。ポンプを使うにしても電気が来なければいけないし、自家発電だってシャフトが少しでも曲がったら使えません。だから非常時には重力による自然流下が一番信用できる、プリミティブなものほど信用度が高いのです。延長約2㎞におよぶ配水管についても地震に強いポリエチレンパイプを使っています。ですから、清水寺から八坂神社に至る区間で火災が起こっても「守ってご覧にいれましょう」と、今では私たちも自信をもって言うことができます。この地域にある「八坂の塔」として知られる五重の塔では、すでにこのシステムの水で下から塔の上に向かって噴水のように水のカーテンで包むテストも行われました。

 最後に、私たちが昨年10月に始めた「明日の京都 文化遺産プラットフォーム」についてお話しします。目的としたのは(1)古都京都の文化遺産を毀損することなく後世に継承すること(2)文化遺産に現代的な課題に応え得る価値を見出し、未来に向けてその存在意義を高めていくこと(3)百年先を見据え、新たに未来の文化遺産を創造すること、などです。そのために、5つの領域(文化遺産の保全と継承、文化遺産を災害から護り育てる、文化遺産に関する教育・研究と人材育成、京都の伝統文化の保存と活用、新たな文化遺産の創造)で様々な事業を展開してまいります。こうした趣旨に賛同していただける方であれば、府市民やボランティア、企業、観光客など、すべての方々に参加をオープンにしています。

やらずぶったくりの日本人

 こうしたことを始めた理由は、実はいつも考えていたことですが、京都の人に限らず現代の日本人は先人たちから文化遺産をもらっていながら、将来の人のためには何もしていないのではないかという疑問があったからです。人から貰って人に与えない人間というのは、やらずぶったくりと言って、一番嫌な人間、絶対に友達にはしたくない人間です。私に言わせれば、現代の京都人、日本人はやらずぶったくりです。今から100年先、200年先の日本人から、21世紀の京都人、日本人は自分たちのことしか考えなかったのだと言われたら、恥ずかしくないですか。

 例えば「平安神宮」は、1895年(明治28年)3月に平安建都1100年を記念して開かれた「内国勧業博覧会」の目玉、いわゆるパビリオンの1つとして、平安京建都(794年)当時の大内裏を一部縮小復元したものです。1000年以上の歴史ある「葵祭」(5月)、祇園祭(7月)とともに「京都三大祭」に数えられる「時代祭」(10月)も、その平安建都1100年記念で行われた行列であり、それを三大祭に入れているのです。いわば100年前の人々からもらっている祭りですね。

 あるいは「琵琶湖疏水」にしても、100年前の人が作ってくれたから京都150万人の飲み水がこれで賄われているのです。100年前からの近代化遺産のおかげですね。まさに100年前の人たちが単なるアイデアではなく、現実的にこうしたことをやっていたのです。また、本願寺水道では京都市東山区蹴上から東本願寺までの区間で、土管ではなく鉄管をフランスから輸入してまで消防システムを作っているのです。今みたいに長さが6mもある鉄管ではなく、長さが60〜70㎝ほどの短い鉄管を何千個とつないでいるのですよ。そうした後世に残るような事業は先頃、私たちが清水寺から八坂神社に至る防災事業を行うまで、やられて来なかったのです。実に100年間もです。

明日の京都 文化遺産プラットフォーム

 それで、我慢しかねて、いろんな講演の際に「将来の人たちに恥ずかしくないですか」と言い、かつ「将来のために何かを始めましょう」と言い続けていたら、京都で最も近づきにくい存在であると思い込んでいた京都仏教会から「自分たちも一緒にやりましょう」と申し出てくださったのです。そこで決心して、「文化遺産プラットフォーム」を2010年10月に結成して、会長にはユネスコ事務局長を10年間務められた松浦晃一郎さんに就いていただきました。その理事会のメンバーは京都の府知事や市長をはじめ、京都仏教界や神社庁、企業、社会奉仕団体、文化財関係団体、大学学長など各界を代表する方々です。京都在住ではありませんが、元々京都人である歌舞伎役者で人間国宝(重要無形文化財保持者)の坂田藤十郎さんもメンバーです。

 こういう人々が集まって「世界遺産を考えよう」「大学人の役割は何か」「社会との連携や貢献は」などを論議し、さらに防災問題を含めた「文化遺産の危機管理」、文化遺産を若い30代、40代の人たちに自分たちの問題として考えてもらう「若人の会」など、6つの部会をつくりました。事業計画としては大規模なものは、まだある種の思いつきの段階ですが、フォーラムやシンポジュームは始まっています。

 ここからは私の思いですが、例えば「京都盆地の100年計画」として「琵琶湖から新しく第三疎水を引いて来よう、そうでないと京都は丸焼けになるよ」などと言い出したら、今ならばきっと「何やお前は、気がふれたんと違うか」と言われますね。だけど、先ほど申し上げたように、100年前に琵琶湖疏水を実現した人がいるからこそ、京都市民150万人が助かっているのですよ。「笑い者にされるのを恐れてはダメなのだ」と私は思い、いろいろとウソみたいな話をしているのです。

 こんなこともありました。平安建都1200年祭では将来に遺すべき事業が見られないが、客観的にはどのように見られているかと思い、インターネットのウィキペディアで検索すると、平安建都1200年の記念事業として「JR京都駅の改修」「京都市営地下鉄東西線・二条駅〜醍醐駅間の開業」(ともに1997年)と、書かれていました。でも、これらは自分たちの利便性の追求じゃないですか。100年前の人がやったのは平安神宮、時代祭といった人間の精神活動にかかわることでした。ところが、100年間のうちに京都の人、そして日本人は、精神活動にかかわることを忘れ去っているのです。これが恥ずかしくないことでしょうか。当時の京都市長にもある会合で直接申し上げました。「1200年祭をなさっているが、後世のために何か残しているのでしょうか」と。

「羅城門」の復元を皆の手で

 もう一つのアイデアは、1200年前にできた「羅城門」の復元です。でも、あまりにも分かりやす過ぎて、私たちの取り組み(文化遺産プラットフォーム)は「羅城門を復元するのが目的か」と矮小化されても困るので、公にはまだ言っていません。もう少しいろいろな事業が進んできたときにと考えているのです。その代わり「50年、100年かかってもいいから、後世の人々のために我々が今種をまこう」と言っているのです。奈良の平城京は、250億円をかけて今復元してもらっていますが(※)、やはり1300年祭のために国につくってもらっているのです。非難しているのではないですよ。しかし京都の場合は、将来の人々のために100円、1000円と集めながら、自分たちの手で羅城門を復元させたいのです。スペイン・バルセロナにある建造中の教会「サグラダ・ファミリア」のように、完成まで何年かかってもいいじゃないかと。

   * 文化庁の「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、平城京遺跡の整備や建造物の復元が進められている。費用は全額国費負担。第一次大極殿(2010年竣工)・朱雀門(1998年竣工)・宮内省、東院庭園地区の復元が完了している。

 そして羅城門が復元されたなら、京都に来た人にはまず、ここから入ってもらいます。京都の町が1200年前にできたことを頭に入れてもらい、金閣寺へ行く人がいれば「金閣寺は600年前、京都の歴史の真ん中ごろにできました」と説明するなど、時代感覚や歴史を意識しながら観光してもらうのです。そのために、建設中でも羅城門の中央の一つの扉だけは開けておいてくださいねと、そんなことを今考えています。

土岐憲三 氏
(とき けんぞう)

土岐憲三(とき けんぞう) 氏のプロフィール
1938年、香川県生まれ。1957年、愛媛県立新居浜西高校卒業。1961年、京都大学工学部土木工学科卒、1966年京都大学大学院工学研究科博士課程修了。同年京都大学工学部助教授、1976年同教授。1996年東京大学客員教授。1997年京都大学工学研究科長兼工学部長、総長補佐を経て2002年4月から現職。2003年から立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長。2004年から総長顧問。2001年から内閣府中央防災会議「東南海、南海地震等に関する専門調査会」座長など。

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