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日本語で接することのできるメディアで、イスラム諸国における科学の歴史と現状を俯瞰(ふかん)的かつ網羅的に知る機会はなかなかない。本書は、イスラム諸国における科学の歴史と現状を、パキスタン人の著者によって西洋と対比しながらできる限り客観的かつ建設的に理解するための全体像を示している。さらに、著者自身が現在どん底にあると捉えている、イスラム世界の科学の状況を改善していくための道しるべを提示する、類まれな書である。
イスラム諸国における科学を理解するには、科学をめぐる3つの反応を理解する必要があるという。一つめは、復古主義者の流れである。「イスラム原理主義運動」はその最も具体的な現れであり、悪で無神的性格を持つ西洋の科学にキャッチアップするのは望ましいことではなく、すべての教育が(西洋の近代科学に汚染されていない)「正統な」イスラム教育に変わらなければならないという立場をとる。
二つめは、再建主義者の流れである。自ら正統派を主張する復古主義者とは対照的に、信仰を再解釈することによって西洋の近代科学の諸概念と対応可能なものとし、「純粋な」イスラムを抽出しようと試みる。そのためにコーランは道徳導きの書であって、コーランには科学的知識を求めないという独自の解釈を提案している。
しかし、今日のイスラム教徒の多数派を占めるのは復古主義者でなければ再建主義者でもなく、三つめの流れに相当するプラグマティストであるという。彼らはコーランの解釈に没頭することを好まず、イスラムと近代性が対立していないという漠然たる信念に満足しているが、他の二つの流れとは異なり自ら主張はしない。イスラム諸国における科学の未来は、多数派を占めるプラグマティストが「イスラム原理主義運動」の圧力に屈せず、市民社会の主導権を握ることができるかどうかにかかっているというのだ。
宗教やイデオロギーと科学の解釈の問題は、何もイスラム諸国だけに特異的に起こっていることではない。西洋においても、キリスト教と科学の価値観の衝突が起こっていることは論をまたないだろう。例えば、欧米でダーウィンの進化論を教えることができない地域は珍しくなく、ダーウィン生誕200年を記念して英国をはじめ日本を含む世界各国で開催された「ダーウィン展」でも進化論をめぐる議論が展示で大きく取り上げられていた。また、ソビエトを中心としたルイセンコ論争に代表される「マルクス主義科学」の議論もあり、本書においても紙幅を割いて詳述されている。
科学であっても、宗教やイデオロギーなど社会的な文脈と不可分である。仮に同じ宗教の中であってもさまざまな立場の解釈があり、科学研究の発展においてもこれらの影響を強く受けている。本書を通読して明確になってくるのは、イスラム圏に軸足を置きつつも「イスラム原理主義運動」には批判的で、声なき多数派であるプラグマティストの立場を支持するという、筆者の立ち位置である。これが非イスラム圏の筆者であれば西洋バイアスを文章から感じざるを得なかっただろうし、イスラム圏の筆者であっても復古主義者であったとしたら「イスラム原理主義運動」を支持する別のバイアスがかかっていたのではないかと類推される。
巻末には、「イスラム的科学」が学会などの会議の場で発表された例が幾つか引用されている。また、筆者の書いた記事が、ある「イスラム的科学」者の猛烈な怒りを買ったことについても記述されている。前段のイスラム諸国における科学をめぐる三つの反応を念頭に置きつつ読み進めていくと、その結果が生まれた文脈が見えてくるに相違ない。