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「酸(す)いも甘いも噛(か)み分けた」と言えば、人生経験を積み、人情の機微を知っていることを意味する。本書のテーマ「噛む力で脳・からだ・こころを守る」の理想の姿かもしれない。というのは、健やかに年を重ねていくイメージが凝縮されているように思えるからだ。
著者は生理学を専門とする大学教授だが、内容は料理の効用から脳科学まで幅広い。要所に図や画像はあるけれど、基本的に文章主体つまり読んで理解するタイプの書籍だ。しかし中でも脳の前頭前野、海馬や視床下部、神経伝達のメカニズムなど難しそうな事柄は繰り返し現れ、少しずつ焦点が絞られていく。それは食べ物に例えると、何度も噛むことで小さくなめらかになり、飲み込みやすくなる過程に似ている。
第1章では五味の識別や五感を磨く重要性を端緒に、「咀嚼(そしゃく)運動と脳との関係」について調査研究の解説が始まる。第2章からストレスと記憶障害、生活習慣病の改善、認知症の予防と第5章まで、噛む力がいかに人間の情動に影響を与えているか、次々と実験結果が明らかにされている。無味無臭のガムを噛む行為を通して、脳の構造と活動状態の変化をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)というシステムで調べることができるそうだ。
高齢者ほど噛む行為が脳の活性化に有効とのデータもあり、脳の前頭前野の4つの働き「集中力、意欲、共感力、切り替え力」の説明は、若くても参考にしたい。また噛まない・噛めない場合は神経伝達物質の減少のほか、ストレスに関わるホルモンの血中濃度が高まるなど、逆の作用についても検証が行われている。マウスでは、歯を修復した後に空間認知能力がよみがえったそうだ。
摂食嚥(えん)下障害の高齢者への対応、流動食や点滴栄養の人が入れ歯や口腔(こうくう)ケアによって認知症が改善したケースや歯科医の報告も紹介されている。「硬い食品を噛むのがいい」は誤解らしく、臨床や実践的な話題も少なくない。最終の第6章「脳が元気になる噛み方ポイント10か条」では、「箸(はし)置きを使う」提案もあり、伝統的な食事作法がサイエンスの視点で良いとされたようで面白い。
なお、著者らが放射線医学総合研究所の分子イメージング研究センター先端生態計測研究グループ、 機能融合研究チームと共同で行った世界初の研究結果が、同研究所から詳しくプレス発表(注)されている。本書と合わせてご覧になってはいかがだろう。
(注)「ものを噛む“チューイング”、脳の作業記憶が向上 脳の背外側前頭前皮質の活動が変化する様子をfMRIにより確認」(2008年5月9日独立行政法人 放射線医学総合研究所)