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哺乳類という言葉は、授乳する動物の意味ということを知っている人は多いだろう。だが、命名者であるリンネが付け、今なお国際動物命名規約で承認されている原名が「ママリア(mammalia)」と知る人はぐっと少なくなるのではないだろうか。乳房という意味だ。
日本語にする際、なぜ原名、あるいは命名者を尊重する「乳房類」とせず「哺乳類」になったのか? ドイツだけ「mammalia」に忠実な語をあてず「S?ugetiere」つまり「授乳する動物」という語をあてたそうだ。日本語はこちらを訳したため、リンネの思惑とは違ったものになったということだろう。
この本は、米国人著者によるものだから、日本の訳語がどうこうといったことは書かれていない。その代わり、リンネがなぜ「乳房」にこだわり、それがなぜ社会に受け入れられたかが、膨大な事例を基に徹底的に暴き出されている。
「ギリシアの伝統でも、キリスト教の伝統でも、理想的な乳房は、授乳経験がなく、小さく引き締まった球形だった」。こうしたヨーロッパの伝統の延長線に、リンネの「乳房」はない。逆に授乳を奨励する意図からこの言葉が、ヒトを含む「四足類」をくくる用語として選ばれた。
リンネが活躍した18世紀の欧州は、乳母制度全盛の時代。「1780年代までに、パリやリヨンの90%におよぶ子どもたちが乳母に預けられた」。中・上流階級の親がこぞって自分たちの子どもをいなかの乳母に預けた結果、どういうことが起きたか。高い乳児死亡率となってつけが跳ね返り、軍事的・経済的な拡大強化のために労働力の増加を求める政府が人口減少を懸念するまでになる。
リンネは、乳母制度の弊害を説く論文の筆者でもあり、「乳房類」という言葉は、女性に母親の役割を押しつける目的から生まれた用語であることが、詳述されている。
実はこうした話はこの本の魅力の一部でしかない。リンネに限らずさまざまな知識人(男性)が登場し、いかに男性にとって都合のよい女性像をつくりあげようとしたか。その“努力”にぼう然とする読者も多いのではないだろうか。
著者のロンダ・シービンガーは「科学史から消された女性たち」(工作舎)などでも知られる歴史学者で、現在、スタンフォード大学科学史教授で、同大学女性とジェンダー研究所長。訳者の一人、小川眞里子氏は三重大学教授の科学史家。原著が発行された3年後の1996年に出た翻訳書の12年ぶりの再版である。