国土を海に囲まれ、世界第6位の排他的経済水域(EEZ)を持つ日本。そんな我が国における海洋の重要性は自明だといえるだろう。その一方で、海と私たちの暮らしの関わりについては、十分な理解が進んでいない。また、日本の海洋研究の未来が憂慮すべき状況にあることも事実だ。海洋研究の重要性と危機感について述べさせてもらいたい。
目に見えない海の役割や機能を発見し、認識と生活を大きく変化
海は、気候変動の緩和において重要な役割を果たすとともに、未知なる生物多様性と水産資源の宝庫である。例えばサンゴ礁生態系は、日本を含む80以上の国と、世界人口の約2割の収入や食料に影響を与えているとともに、海洋生物多様性の約3割が集中する。サンゴ礁の総面積は海洋面積全体の0.2%以下と小さいものの、単位面積あたりの経済価値は高く、純生産は森林と同程度である。海に四方を囲まれた我が国においては、独自の文化を醸成したり、他国からの侵略を防いだりする上でも歴史的に重要な役割を果たしてきた。
海からの恩恵は海そのものの機能や役割だけにとどまらない。ノーベル賞受賞に至ったクラゲのもつ緑色蛍光色素の発見は、基礎医学の発展に貢献するだけではなく新薬や画期的な治療技術につながった。このように海は私たちの安全、健康、食、精神的な豊かさなどと密接なつながりがある。海洋研究は、こうした普段は目に見えていない海の役割や機能を発見することで、我々の認識と生活を大きく変化させる可能性がある。
一方で、陸で生活する我々は通常、海洋環境に対しては無関心になりがちだ。今や気候変動といったグローバルなストレスに加え、海域ごとに起きている陸源負荷(赤土や農薬・栄養塩などの陸上から過剰に流入する負荷要因)は大きく、海洋生態系は元に戻らないくらいの被害を受けている。何より、海洋に対する我々の理解は一般に想像されるよりも進んでいない。例えば絶滅危惧種のレッドリストを作成するにしても、海洋無脊椎動物の多くはデータ不足で評価できないレベルですらなく、そもそも「未着手」の状態だ。
マイクロプラスチックの意識や行動レベルはG7最下位
近年は、「持続可能な開発のための国連海洋科学の10年(※)」やG7(主要7カ国)学術会議などでも海洋生物多様性の重要性が取り上げられ、注目は世界的にも高まっている。しかし、日本の海洋環境への意識は他国と比べて極めて低い。世界で問題視されているマイクロプラスチックに関して、国、企業、個人の意識、行動レベルは全てにおいて日本がG7の中で最下位となっている。インドネシアでは、海洋保全を国の重要な政策と位置づけ、海の健全性を守ることと地域の貧困問題を一緒に解決する努力をしている。これに対し、日本では、海の環境を守ることが政策の中でほとんど強調されない。
※海洋科学の推進により持続可能な開発目標(SDG14「海の豊かさを守ろう」等)を達成するため、2021-2030年の10年間に集中的に取り組みを実施する計画で、2017年12月の国連総会で採択・宣言された。
国連の第15回生物多様性締約国会議(COP15)でも掲げられた、2030年までに陸と海の30%を保護区とする目標「30 by 30(サーティ・バイ・サーティ)」の達成には、科学的根拠のある保護区の設定が喫緊の課題だが、海における科学的根拠やデータ情報は圧倒的に不足している。すでに沿岸域の70%が漁業管理区である日本では、沖合域に海洋保護区を増やす必要がある。こうした海域の中は潜水艇を使うには浅く、人が潜るには深すぎる海域があり、環境かく乱に脆弱な八放サンゴや海綿を中心とする、生物多様性の評価すらできていない生態系が広がっている。生態系への理解が欠如する傍ら、人間活動、例えば底引き網や気候変動などによってダメージだけが時々刻々と積み重なってしまっている。
実際に海に潜り観察、データ収集を行う体制が重要
海洋研究の現場では、実際に海に潜って観察し、データを収集する「サイエンスダイビング」が重要な役割を果たす。海の中で何が起きているのかを直接見ることは、数字やデータだけではわからない事実の発見につながるとともに、解析結果の妥当性を確認するためにも重要である。
しかし、日本では安全にサイエンスダイビングを実施するためのシステムや体制が整っていない。研究者が海に潜るための訓練や資格が十分に用意されておらず、研究者自身や個々の大学がリスク管理を考えなければならない現状にある。
米国やオーストラリアでは、半年間のトレーニングプログラムを経て、専門的な技術や安全対策を学ぶ仕組みがある。それに対し、日本では、作業ダイバーとしての潜水士の国家資格と、ファンダイブのための民間の資格しかない。
調査技術やリスク管理を教えるカリキュラムの全国導入を
安全管理の教育システムがないことは、海洋研究を立ち遅れさせる原因となる。なぜなら、野外調査のリスクを高め、大学や研究所などの組織は万一の事故における責任問題から逃れるために調査に対して消極的になる、ないし調査毎に多大な計画書を含めた書類づくりを要求せざるを得なくなるからだ。そもそも過度な競争に置かれている若手研究者が、野外調査に出るという研究業績的に非効率なことを避けたがる傾向もある中で、ますます現場離れが進んでしまう。
一方で、環境問題は常に現場で起きている事象であり、現場で得られる経験や知見は極めて重要であるといえる。AI(人工知能)や解析手法の目覚ましい発展が進む一方、現場でどのようにデータがとられたのか、実際に何が起きているのかを自らの目で確認しないと、データの解釈一つをとっても正確に判断できないケースもある。また、現場での「生のデータ」や発見が、新たな問題解決の切り口や理解につながることが多々あることを考えても、海の野外調査を人が安全に行うこと、そしてそれができる人材を育成し続けることは重要である。
そのためにはまず、サイエンスダイビングに特化した新しい資格を設け、研究者が安全に海中調査を行えるようにする必要がある。これにより、調査精度を高めるとともに、現場でのリスク管理をしっかり行う体制を作るのが望ましい。
また、一方で大学や研究機関での安全教育を強化し、海での調査に必要な技術やリスク管理を基礎から教えるカリキュラムを全国的に導入するのもよいだろう。外部の専門家を招いた講習会を開くことで、学生や若手研究者がリスクに対する備えをしっかりと学べる機会を提供する。これらを地域ごとに大学や組織がまとまって行うことでコストを削減するとともに、持続可能に行うための最低限の資金を確保することが可能になる。
海へ赴き、直接見て探究できる人材の育成が必要
海と私たちの関係には、通常認識するよりも深いつながりがある一方、その事実にすら気付けていない状況もある。海の研究において、実際に海へ赴き、そこで起きていることを直接見て探求できる人材の育成は、海との共存・共生を考えていく上で最低限必要なことだ。最後に、セネガルの林業エンジニアであるバーバ・ディオウムの言葉を紹介したい。
"私たちは愛するものを守る、私たちは理解したものを愛す、そして私たちは教えられたことを理解する"
関連リンク
- 東京大学「安田仁奈」
- 東京大学「水域保全学研究室」
- UNESCO「持続可能な開発のための国連海洋科学の10年」