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赤ちゃん世界から未来を考え、大人世界の基準見直す~子ども目線で不思議世界探究プロジェクト~(山口真美/中央大学文学部教授)

2024.11.11

山口真美 / 中央大学 文学部 教授

 未来を創る子どもたちの環境を、子ども目線で考え直したい。大人の世界が絶対ではないこと、多様な知覚世界が有り得ることを知るため、2023年より日本科学未来館(東京都江東区)で、子どもからみる不思議世界を探究するプロジェクトを行っている。中でも、誰もが一度は過ごしているはずなのに、誰も覚えていない赤ちゃんの世界。大人の知らない未知の世界を、少しばかりご紹介したい。

山口真美氏
山口真美氏

複雑なもの・新しいものを好む

 冒頭で述べた考えのはじまりは、言葉を持たない赤ちゃんにある。かれこれ20年以上、大学の実験室で1歳未満の赤ちゃんを対象に認知を調べてきた。言葉を使えなくても、その豊かな世界を視線や行動で語ってくれる。

 実験では、赤ちゃんの視線からモニターに写る映像をどれくらい見るかを計測する。その手段としてアイトラッカーを使うこともある。赤ちゃんは、目の前にあるものを積極的に見ようとする。しかも自分の視力で見ることができる、複雑ではっきりしたもの、新しいものを好む性質がある。これらは自身の視力や認知の学習を促す行動だが、この性質を利用すれば、赤ちゃんが何を区別できるのかを解明できるのだ。

アイトラッカーを付けた赤ちゃん実験の様子
アイトラッカーを付けた赤ちゃん実験の様子

赤ちゃんの立場で環境が作られていない

 ここで赤ちゃん世界の基礎知識から説明すると、視力は生まれた時点で0.02程度。生後6カ月に発達の頂点を迎えるが、それでも大人の視力でいえば0.3程度である。生まれたばかりの未熟な状態では処理できる解像度が悪く、画質の悪い写真のような世界だが、脳の発達が牽引して視力が発達する。

 色覚の完成には眼球にある網膜の成長が必要だ。色の明るさの違いは見えていても、色そのものの区別は難しく、生後2カ月で赤・緑系の色が、生後4カ月では青・黄系の色が区別できるようになる。視力にしても色にしても、赤ちゃんはコントラストがはっきりしないと見えないという特徴があるので、はっきりした赤や青を好み、ベージュといった優しい色は好まない。

 基礎知識を知った上で改めて赤ちゃんの環境を見ると、赤ちゃん視点が欠けていることがわかる。赤ちゃん向けの絵本や玩具には優しい色を使ったものもあり、それらは見えていない可能性がある。赤ちゃんの視力をしっかり把握しておくべき絵本の世界では、0歳から2歳くらいまで幅広い範囲を赤ちゃん期と設定していることもある。視力は生まれて半年で劇的に変わるのに、この設定はかなり大ざっぱだ。

 見えない色で描かれた絵本を見せ続けられる立場を想像してみよう。保育や教育、それぞれの家庭という赤ちゃんが育つ環境を、赤ちゃんの視点で考え直す必要があるのだ。

赤ちゃんの見える色でつくられた絵本(ともに作:新井洋行、監修:山口真美、くもん出版)
赤ちゃんの見える色でつくられた絵本(ともに作:新井洋行、監修:山口真美、くもん出版)

「知覚の恒常性」を得る前の変化に富んだ世界を見ている

 赤ちゃん世界の話に入ろう。何もないはずの天井や壁を、じっと見つめる赤ちゃんの姿を見たことはないだろうか。大人には見えない幽霊が見えているのではと、いぶかしく思う人もいるようだ。

 その謎の秘密は、「知覚の恒常性」にある。大人は世界が不変であることを前提に世界を見ている。例えば、ちょっと頭を動かしただけで、目の前の物体の照明の映り込みが変わったり、視点が移り変わったりと、視界は目まぐるしく変化する。にもかかわらず、目の前にある物体を同じものとして捉えることができる。環境内のささいな変化を暗黙裡に無視して世界を見ているのだ。この能力が、発達初期の赤ちゃんには欠けている。

 赤ちゃんを対象にした実験では、物体が光沢のないマットな質感からキラキラした質感へと変化する映像と、同じ物体に照らされる照明の角度が少しだけ移動した映像を見せ、変化に気付くかを検証した。大人の目の場合では前者は質感が変われば物体も変わって見えるので一目瞭然の一方、後者は間違い探しのように些細な変化を捉えることが難しい。

照明の位置が変化する条件(A)と、物体の質感が変化する条件(B)を比較した実験
照明の位置が変化する条件(A)と、物体の質感が変化する条件(B)を比較した実験

 赤ちゃんは変化するものを好み、変化に気付けば注目する。実験では、注視行動から変化への気付きを捉えた。その結果、7~8カ月児は大人と同じ、対象の質感の変化だけに気付いていた。3~4カ月児は、大人が気付かない照明環境の変化だけに気付いていた。そして5~6カ月児は、どちらの変化にも気付くことができない、発達の移行期にあった。

 先に触れた幽霊を見たと思われた赤ちゃんは、天井や壁に映る光や影の映りこみを見ていたのだろう。大人が無意識のうちに無視し、気付かないようなわずかな環境の変化を赤ちゃんは見ているのである。それは物体を安定的に知覚するための「知覚の恒常性」を獲得する以前の世界である。おそらく赤ちゃんは、物体や対象という枠のない、感覚だけが純粋に広がる変化に富んだ世界を見ていると思われる。こうした感覚世界は、赤ちゃんにとどまらない。発達障害の感覚世界を解明した研究からも、感覚世界は多様であることが明らかになっている。世界の見方は多様なのである。

「大人の平均」を基にしたデザインから多様性を前提に設計される世の中へ

 赤ちゃん世界を知ることは社会に存在する多様性に目を向けるきっかけとなるだろう。皆さんも、赤ちゃん視点に立って考えてほしい。身の回りの環境は、赤ちゃんに優しいものだろうか。

日本科学未来館で行った哲学対話の様子
日本科学未来館で行った哲学対話の様子

 こうした視点に立った日本科学未来館でのプロジェクトの活動は二つある。一つは、子どもと家族が一緒に参加する実験体験。もう一つは、赤ちゃんの結果と自分の実験体験に基づき、哲学対話でそれぞれの体験を話し合い、さまざまな意見を聞いて未来を考える力を育むこと。大局的には、赤ちゃんから大人へと視点を巡らせることで、未来社会に適応する個々の多様な発達を支える環境のあり方を捉えていくことが狙いだ。

 引き続き赤ちゃん世界の解明を深め、私たちの想像を超える豊かな未知の世界を知ることで、新たな世界の基準を作り出す一助となりたいと考えている。具体的な目標は、あらゆるデザインが「大人の平均」を基にされない世の中。多数派の色覚をもとに作られていた地下鉄の路線図に多様性を組み入れたことで、誰にとっても見やすくなった事例もある。平均身長、平均体重のような「平均」で作り出されたさまざまな機器のデザインが、視力や聴力なども含めて多様な人々がいることを前提に設計される世の中へと導きたい。

12月に日本科学未来館で実施するワークショップは、山口教授の研究室が制作にかかわったおもちゃを題材に「赤ちゃんとおもちゃ」をテーマに開催する
12月に日本科学未来館で実施するワークショップは、山口教授の研究室が制作にかかわったおもちゃを題材に「赤ちゃんとおもちゃ」をテーマに開催する

山口真美(やまぐち・まさみ)

中央大学 文学部 教授

お茶の水女子大学人間文化研究科人間発達学専攻単位取得修了、博士(人文科学)、ATR人間情報通信研究所研究員、福島大学生涯学習研究センター助教授、中央大学文学部助教授、科学技術振興機構さきがけ研究員を経て中央大学文学部教授。新学術領域研究(研究領域提案型)「トランスカルチャー状況下における顔身体学の構築―多文化をつなぐ顔と身体表現」の領域代表などを務める。日本赤ちゃん学会理事長。

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