9月18日はノーベル経済学賞に最も近いといわれた世界的な経済学者、故宇沢弘文(うざわ ひろふみ)教授の3回忌であった。宇沢教授は、個人の人間的な尊厳と魂の自立が図られ、市民の基本的権利が最大限に発揮できるような安定的な社会を実現するための枠組みとして社会的共通資本の概念を提唱した。宇沢教授の足跡を振り返るとともに、宇沢から学問的にも思想的にも多くの教えを受けたコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授の人間と地球のための経済に関する提言を紹介する。
宇沢弘文の足跡
宇沢弘文(敬称略、以下同)は1950年代半ばから、米国の大学で数理経済学的手法による経済成長理論などで先駆的な業績を上げ、その代表的な論文である「二部門成長モデル」(消費財と投資財の2部門で構成する新しいモデルで経済成長のプロセスを考察)など は高く評価されている。しかしベトナム戦争に邁進(まいしん)する米国での生活に苦悩を感じ、1968年に帰国する。ところが高度経済成長の成果を謳歌(おうか)していたはずの当時の日本は、深刻な公害問題や自然破壊が頻発し、歩道も未整備のまま無秩序なモータリゼーションが進んでいた。宇沢はその状況に衝撃を受け、自身の経済成長モデルの前提としていた新古典派経済学を根本的に構築し直す作業に入り、社会的共通資本理論(2000年岩波書店・岩波新書「社会的共通資本」)の提唱に至った。
宇沢が取り組もうとしたことは、いわば社会科学における「人間性の復権」であった。経済を人間の心から切り離し、現実を文化的・歴史的・社会的な側面から切り離す近代経済学の現状を批判的に再構築し、根源的な命題の実現に取り組もうとしたのである。
社会的共通資本の意義
宇沢の提唱した社会的共通資本は、山や森などの自然環境、社会的インフラ、そして病院、学校などの制度資本から構成される。社会的共通資本が健全に維持されることにより、国や地域が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的・安定的に維持することが可能になるのである。
宇沢は、社会的共通資本は、社会全体の共通財産として、社会的基準に従って管理・運営されるべきものであり、その管理・運営は官僚的基準に基づいて行なわれてはならないこと、また市場的条件によって大きく左右されてはならないことも強調した。政府の重要な役割は、社会的共通資本の管理・運営が社会的信託の原則に忠実に行なわれているかどうかを監理し、それらの間の財政的バランスを保つことができるようにするものとしたのである。
宇沢は社会的共通資本の概念に基づき公害問題に取り組み、1974年に「自動車の社会的費用」を発表した。これは自動車利用による社会的共通資本の汚染や破壊に焦点を当てて自動車の社会的費用を算出したもので、自動車交通によって人々が市民的権利を侵害されずに暮らせるよう、道路や都市構造を造り替えた場合の総費用は、当時の物価水準で毎年1台当たり約200万円とした。事実上自動車保有を大きく制限することを意味し、社会に衝撃を与えた。
地球温暖化問題にも取り組み、その対策として、各国の一人当たりの国民所得に比例して税金を課す比例的炭素税を提唱した。そして、その税収から育林への補助金を引いた一定の割合を拠出して大気安定化国際基金を設置し、発展途上国に一定のルールに基づいて配分し、それで熱帯雨林の保全や農村の維持などに使うという構想を提案した。
スティグリッツの気候変動対策に関する提言
スティグリッツは、50年ほど前に宇沢弘文がシカゴ大学教授時代に主宰した数理経済学セミナー以来師弟関係にあり、学術研究面でも思想面でも宇沢に多くの教えを受け、世界的学者となってからも宇沢との親交が続いた。
スティグリッツは2001年に情報の非対称性に関する理論でノーベル経済学賞を受賞した著名な理論経済学者である。クリントン政権下で大統領経済諮問委員会委員長、その後世界銀行上級副総裁兼チーフエコノミストとして現実の開発途上国の開発問題にも深くかかわっている。グローバリゼーションの弊害や、米国における所得格差の拡大を実証的に明らかにし、さらに米国および多国籍企業主導で進められるTPP交渉にも批判的な立場を表明している。明晰な理論的分析に依拠しながらも、現実の経済・社会問題に根源的な立場で取り組む姿勢は宇沢と共通している。
スティグリッツは本年3月に国連大学で「グローバリゼーションと地球の限界下における持続可能な社会と経済」とのタイトルで講演(2016年3月16日「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム」)を行い、グローバルな課題である気候変動に取り組む衡平かつ現実的なアプローチとして、カーボン・プライシング(炭素の価格付け)を強調し、有志国連合による炭素税導入と国境調整税が有効とした。
カーボン・プライシングとは、気候変動の原因となる二酸化炭素(CO2)による社会的外部費用(気候変動による被害など)を内部化するため、排出炭素量に応じて課金することだ。排出削減に対する経済的インセンティブを創出し、気候変動への対応を促す。炭素に価格がつくと、CO2の排出者は排出を減らすか、排出の対価を支払うかを選択する。その結果、社会全体でより柔軟かつ経済的にCO2を削減できる。具体的な手法には、炭素税(環境税)、排出量取引制度などがある。カーボン・プライシングは、低炭素技術への投資と市場拡大へのインセンティブにもなる。
彼は次のように述べている。「我々は地球の限界を超えた生活をしている。今後の真の挑戦は、気候変動に地球規模で衡平な方法で取り組むことである。大気は地球公共財であり、誰もが便益を享受したがるが、だれも大気保全コストを負担したがらない。先進国と発展途上国では累積および現在の排出責任に差異があり、しかも気候変動の被害の多くは発展途上国に降りかかる。自主的取り組みだけでは成功しないのが通例だ」
「ではどうすればよいか。ほとんどの経済学者が、炭素価格を設定することが温室効果ガスの排出を抑制する最善の方法だと考えている。適切な炭素価格を導入すれば、世界規模での低炭素経済を実現できるであろう。税収は大幅に向上し、他の税金を削減することができる。経済学の基本原理は、よいもの(労働、投資など)より悪いもの(汚染物質、資源浪費など)に課税するべき、という単純なものである。今日の日本は税収をいかに増やすかという課題に直面しているが、迷うことなく炭素税について検討すべきである 。炭素税の導入は、環境問題が本当に社会的に意義深いと皆が考えるならば、経済効率も全体的に向上させる。また、企業が炭素価格の導入に対応するための設備投資を行うことから、総需要も拡大する。炭素税の導入は、喫緊の問題である総需要の不足を軽減し、税収を増やし、環境を改善する。三つの課題を一挙に解決できる政策などなかなかない」
終わりに
日本では低率の温暖化対策税(2016年4月からはCO21トンあたり289円)が導入され、年間2,689億円の税収が見込まれている。税収はエネルギー対策特会に繰り入れられ、温暖化対策に使われている。しかしこの税は、化石燃料消費抑制にはさほど効果はないとされている。
温室効果ガス排出抑制に効果をあげゼロ炭素経済への移行を促進するためには、現行税率を大幅に上回る本格的炭素税の導入が不可欠だ(スティグリッツが言及しているのもこのような本格的炭素税である)。消費税増税に代わる本格的炭素税の導入により新たな需要と投資機会が開かれ、税収を増やし、環境を改善できる 。その際、社会保障財源などとの連携を図り、経済政策や社会政策と気候変動政策を統合する視点が重要である。
宇沢の足跡を振り返ると、常に先見的に深い洞察力を持って問題を考える一方、水俣や成田などの現場にたびたび足を運び、地域の人や被害を受けている方に対し温かく優しい眼差しを注いでいたことに思い至る。そうした宇沢の思想と行動が、経済学を超えて広範な学問分野に影響を与え、多くの人々の心を捉えてきたのである。
若き日に宇沢の薫陶を受け、その後も学問的・人間的交流を続けたスティグリッツは、理論経済学者としての活躍に加え、現実の政策立案に関与し、さらには世界銀行で発展途上国の実態にも関わってきた。理論的分析に基盤を置きながらも、人びとの生活を直視し、より良い経済のフレームワークを作るべく具体的な提言を精力的に行っている。
今日の地球社会は、プラネタリー・バウンダリー(地球の境界)の中で、いかにして人びとがより持続的に安心して生活できる社会を構築できるか、という課題に直面している。宇沢やスティグリッツの思いを受け止め、研究者、実務家、市民それぞれに、社会が直面する根源的な課題に真摯(しんし)に取り組むことを求められている。
松下和夫(まつした かずお) 氏のプロフィール
京都大学名誉教授、東京都市大学客員教授、(公財)地球環境戦略研究機関(IGES)シニアフェロー、国際協力機構(JICA)環境ガイドライン異議申立て審査役。1972年に環境庁入庁後、大気規制課長、環境保全対策課長等を歴任。OECD環境局、国連地球サミット(UNCED)事務局(上級環境計画官)勤務。2001年から2013年まで京都大学大学院地球環境学堂教授(地球環境政策論)。環境行政、特に地球環境・国際協力に長く関わり、国連気候変動枠組み条約や京都議定書の交渉に参画。持続可能な発展論、環境ガバナンス論、気候変動政策・生物多様性政策・地域環境政策などを研究。主要著書に、「地球環境学への旅」(2011年)、「環境政策学のすすめ」(2007年)、「環境ガバナンス論」(2007年)、「環境ガバナンス」(市民、企業、自治体、政府の役割)(2002年)、「環境政治入門」(2000年)、監訳にロバート・ワトソン「環境と開発への提言」(2015年)、レスター・R・ブラウン「地球白書」など。