文部科学省と科学技術振興機構(JST)は、平成25年度から「革新的イノベーション創出プログラム(COI STREAM※)」を始めた。このプログラムは、現代社会に潜在するニーズから、将来に求められる社会の姿や暮らしのあり方(=ビジョン)を設定し、10年後を見通してその実現を目指す、ハイリスクだが実用化の期待が大きい革新的な研究開発を集中的に支援する。そうした研究開発において、鍵となるのが異分野融合・産学連携の体制による拠点の創出である。本シリーズでは、COI STREAMのビジョンのもと、イノベーションの拠点形成に率先して取り組むリーダーたちに、研究の目的や実践的な方法を述べていただく。第 7回は、超高齢化・少子化社会の到来を前に、“入院を外来に”“外来を家庭に”“家庭で健康に”というコンセプトのもと「自分で守る健康社会」の実現を掲げ、東京大学を拠点とした「ICTによる次世代健康医療産業の基盤構築」「予防・未病イノベーション」「ユビキタス診断・治療」の研究開発を束ねる池浦富久氏にご意見をいただいた。
※COI STREAM/Center of Innovation Science and Technology based Radical Innovation and Entrepreneurship Program。JSTは、「センター・オブ・イノベーション(COI)プログラム」として大規模産学官連携拠点(COI拠点)を形成し研究開発を支援している。詳しくは、JST センター・オブ・イノベーション(COI)プログラムのページを参照。
今、 東大COI拠点の機構長としてR&Dマネジメントを実践していているのは巡り合わせというか見えないある色の糸に繋がっていると思う時がしばしばあります。
ここではそういう想いから、
1.企業経営から見たR&D
2.新規事業に挑戦するにあたって
3.COIに賭ける想い(志)
を述べてみたいと思います。
1.企業経営から見たR&D
私事を述べるのは気が引けますが、そもそも東大COI拠点の機構長をしていることを三菱化学時代の製造現場の先輩諸氏が知ったら驚くだろうと思います。
なぜなら私は入社以来、製造現場の最前線で現場改革を行うことを天職と信じ、汗を流し知恵を絞ってきました。そういう中で新規事業との最初の出会いは、当時、社内外で工業化は困難と言われていた世界初のピッチ系炭素繊維の製造現場の立ち上げでした。不眠不休に近い努力や、素晴らしい仲間に支えられ、生産技術に何とかめどを立てることができました。
ここで得た感動は、「なせばなる、なさねばならぬなにごとも、ならぬは人のなさぬなりけり」という上杉鷹山(うえすぎ ようざん)※1の言葉そのものでした。その後、幾つかの事業所のトップを歴任したあと、本社に異動となりましたが、そこに待ち構えていましたのは当時の社長、小林喜光(こばやし よしみつ)さん(現三菱ケミカルホールディングス会長、経済同友会代表幹事)からの「R&D※2をやってくれ。自分が担当していたCTO※3みたいなものだ。R&Dには期待はするが当てにはしない!」という辞令でした。
※1 上杉鷹山/江戸時代中期の米沢藩9代藩主。大倹約令を発令するなどして財政立て直しを行い、民衆を飢餓から救った。
※2 R&D/research and development 研究開発
※3 CTO/chief technical officer、chief technology officer 最高技術責任者
会社の歴史上、初めての製造現場出身のR&Dのトップの誕生でした。正直、社内の研究者の実情も知らなければ社外との共同研究も何も知らない素人CTOがスタートです。社長の方針を勉強する中ですぐに気がついたのは、研究者の元気のなさです。元気な研究者はどちらかというと異端児で上司が扱い難い人。そこからR&Dマネジメントとは何だろうかと自分への問いかけが始まりました。また、自分の夢は何だろう、事業を伸ばすにはR&Dしかない、なのになぜ元気のない指示待ち研究者が多いのか。
この辺りの正確な理由は企業秘密になりますので少し脚色してお話したいと思います。まず2000年頃、MIT(マサチューセッツ工科大学)の超高名な教授にCTOを委ねた過去に触れないといけません。当時のそのCTOのR&Dマネジメントは“show me the money”と、当時としては鮮烈なコメントで研究者に事業を意識させました。しかしそれがいつの間にかカスタマイズされて研究者が誤った解釈をしてしまったのかもしれません。結局、事業部のR&Dと将来R&D(コーポレートR&D)の溝は深まる一方だったようです。
掲げた理念は鮮烈でも最前線に伝わらない。しかも改革の旗手は3年でMITへ。組織改革は、“やってみせ、言って聞かせて、させてみて…”が基本です。要はサステイナブルなマネジメントではなかったのです。研究だろうと、営業だろうと、事務だろうと、製造だろうと、仕事の基本は“respect、trust、communication”、この三つが大事。まずはここからスタートしました。
そういうことを前提に企業経営に携わって感じたのは、経営トップがR&Dにコミットすることの大切さです。事業戦略(=マーケット戦略)があって、初めてR&D、IP戦略※4がある。どうもこの辺りの共通認識が欠けていると強く思った次第です。極端な言い方をしますと技術に価値があるのでなく事業に価値がある。これが企業におけるR&Dであり経営だと思います。
※4 IP戦略/知財戦略。IPはintellectual propertyの略。
2.新規事業に挑戦するにあたって
センター・オブ・イノベーション(COI)プログラムは、社会を変えるためにあるべき未来を想定し、バックキャストして研究開発テーマを決めています。その理念の下、東大のシーズを活用して27社の企業が集まっています。いわゆる基礎研究でなく社会実装がミッションです。
社会実装=企業の事業化、収益に寄与すると考えますと、一般的に言われますが“死の谷※5を乗り越え”“ダーウインの海※6を泳ぎきる”ことが必要です。しかしやっと陸に上がっても“疲れ切って事業の旬は数年”こうなるケースが意外と多いのです。そうならないようにするにはどうすればいいのか。成功事例を書いたビジネス書がありますが、私は“成功の秘訣”などないと思っています。ただ、絶対に大事なことはマーケット戦略でしょう。
※5 死の谷/カリフォルニアのデスバレー(Death Valley)に因む言葉で、研究開発から事業化への道を阻む深い谷間を指す。
※6 ダーウィンの海/事業化された製品を市場化するのを阻む海。ライバルが生存競争をかけてしのぎを削るイメージから名づけられた。
産業構造の中での位置付けは、どう売るか、もうかるのか、IPで参入障壁をどのように作るか、そして大事なことは社会のためになるか。これを考えていないテーマは真の社会実装にはたどりつけず、技術は素晴らしいが気が付くと赤字が残るだけになりかねません。
R&Dを担当しているとき、解析しましたらある領域の新規(機能化学品関係)R&Dの事業化確率は20%以下でした。日本を代表する技術は10数年かけてやっと花開き、世界をリードして来たように思います。今、企業はこの10年が重い。だからこそ「革新的産官学連携」が求められるのだと思います。
3.COIに賭ける想い(志)
ヘルスケアビジネスは一社だけではできません。これは企業にいるとき、経営戦略を担当していて強く感じたことです。何のために東大COIの機構長をしているのか。私はニュートラルな立場で企業連携の場を作ることが使命と考えています。私の使命はこのCOIでヘルスケアサービスイノベーションを起こすことと考えています。そのためには企業の枠を越えて一緒に考えてくれる仲間が必要です。
そこで 「健康長寿ループの会」を立ち上げました。似たような名前のシンポジウムもあると思いますが、ここでは幕末の志士の議論のように超高齢化社会の企業同盟を仕掛け、それに必要な研究開発テーマを拾い上げる。そういうことを狙っています。従いまして、ヘルスケアを志向しているさまざまな業種の企業に声を掛けて、年2回のペースで開催し、60社近い企業が参加するに至ってます。
前例がないサービスイノベーションを起こすには常に世の中の変化を把握しておく必要があります。「健康長寿ループの会」が、企業間の出会いの場になりつつあるとの実感があります。
一方、忘れてはいけないのは、企業にできない基盤研究もCOIは意識すべきということです。東大COI拠点では、「健康医療ICT※7」と「全ゲノム解析」はまさにそういうテーマと認識して取り組んでいます。描いた未来に到達するには短期、中期、長期で何をすれば良いのか、各拠点とも議論しながら挑戦できればと思います。
※7 ICT/Information and Communication Technology 情報通信技術。
最後に私の信念を述べます。次世代健康医療産業を興すには、健康リテラシーの向上が必須です。それを東大COI拠点から「健康長寿ループの会」という形で仕掛け、健康土壌を作り、研究開発成果の種を蒔いてイノベーションを起こす。これは私の未来へのライフワークでもあります。
池浦富久(いけうら・とみひさ)氏のプロフィール
1951年生まれ。福岡県出身。76年九州大学大学院工学研究科合成化学専攻修士課程を修了後、76年に三菱化成工業株式会社(当時)に入社。以来、転勤8回、単身赴任連続13年の各事業所での勤務を通じて現場経験を積む。三菱化学史上で初の製造現場出身のCTOに就任。三菱ケミカルホールディングス執行役員および三菱化学常務執行役員として技術開発戦略を束ね、「専門性がなくてもR&Dマネジメントはできる」と信念を持つ。3.11直後の文科省、経産省の開発合同委員会委員。2013年10月より、東京大学COI拠点機構長。現在、三菱化学テクノリサーチ特別顧問を兼業しながら、東大COI拠点の仕事に「99%を注いでいる」。