2014年のノーベル賞授賞式に出席し、ノーベル物理学賞が赤崎勇先生、天野浩先生、中村修二先生に贈られる場に立ち会う幸運に恵まれた。29年前の1985年に赤崎先生の長年の研究成果を基に、JSTが青色発光ダイオード(LED)開発プロジェクトを立ち上げたことに、私も関わったからである。
3人の講演に拍手鳴りやまず
ストックホルムはカムチャッカ半島の付け根に相当する緯度に位置しており、相当に寒いと聞いていたので覚悟して出かけたが、実際には雨は降っても、雪になるようなことはなかった。また、市街はクリスマスが近いこともあり、多くのイルミネーションで飾られていた。LEDが多数使われており、あたかもノーベル物理学賞を祝っているかのようだった。
私は12月8日のノーベルレクチャー(受賞記念講演)から参加した。ノーベルレクチャーはストックホルム大学で開催され、この日はノーベル物理学賞、化学賞、経済学賞の受賞者の講演が行われた。私は余裕を見て、40分前に会場に到着した。開門前にもかかわらず、多くの人々の列が既にできていた。講演は物理学賞、化学賞、経済学賞の順に行われ、冒頭より赤崎先生、天野先生、中村先生がそれぞれの仕事の内容を講演された。
3人の先生はそれぞれの立場で青色LED開発の経緯を紹介された。その開発がどれほど難しかったか、どのように克服していったのかを簡明かつ的確に語られ、素晴らしい内容であった。そして講演が終わった後、3人が壇上に上がると、満員の聴衆全員が立ち上がってスタンディングオベーションで、長い間拍手を送っていたのが感動的であった。
「日本人が完勝」の声も
授賞式は12月10日午後4時半に市内のコンサートホールで始まった。私はこれまで京都賞など、国内のいくつかの授賞式に参加したが、やはりノーベル賞授賞式となると、また異なった尊厳と緊張感を感じた。それは、国王一家が参加され、国王が直接メダルを渡されたこともあると思う。私自身がノーベル賞に対して抱いていた尊敬の念によるものなのかもしれない。
授賞式の後は晩餐会である。晩餐会では、約1300人の国内外の招待者が市庁舎の大広間で、アトラクションを挟みながら、約2時間半のディナーをとった。私の席の周囲は皆スウェーデン人だった。彼らから「今年のノーベル賞は日本人の完勝」という声が聞かれた。これにはもちろん、日本人の私に対する外交辞令もあろうかと思うが、スウェーデン人から見ても、今年のノーベル賞では日本人による青色LED開発が印象に残ったということではないか。晩餐会の後、さらに舞踏会が開催され、私は途中で失礼した。舞踏会は、聞くところによると、朝まで行われていたそうである。
29年前、青色発光ダイオードが今日のように普及し、照明にまで使われるとは夢にも思わなかった。当時は短波長領域の光を固体発光素子から高輝度に得る、ということが目標で、それがせいぜい高密度光ディスクやフラットディスプレイなどにつながる、と考えられていたからである。
企業の努力も大きかった
私はある企業の幹部が「この世から真空管をなくしたい」とおっしゃっていたことを思い出す。その時は「フラットディスプレイによってテレビのブラウン管が不要になる」という意味であると考えていたが、もしLED照明が蛍光灯に置き換わるのであれば、この方の言われていたことが特殊な分野を除き、ほぼ達成されたことになる。当時の多くの研究者の夢が実現したと思って感慨深い。
私は今年のノーベル物理学賞受賞のニュースを聞いて、もちろん大変に喜んだが、驚くことはなかった。むしろ、高輝度の青色LEDが豊田合成や日亜化学工業から商品化されたことやその後の普及、たとえば携帯電話のアンテナの先や町中のディスプレイでよく見かけるようになり、信号機、さらには携帯電話や大型テレビのバックライト、照明器具などに用いられた時点1つ1つが驚きと喜びの連続であった。そして、赤崎先生、天野先生、中村先生のノーベル賞受賞は、そのゴールのような気がする。
最後に、青色発光ダイオード開発の成功は赤崎先生、天野先生、中村先生、豊田合成や日亜化学工業など多くの方々の大変な努力によるものであり、その成果の一部を私も享受していることに深く感謝したい。
石田秋生(いしだ あきお)氏のプロフィール
1950年札幌市生まれ。77年、新技術開発事業団(現・科学技術振興機構、JST)に入り、現在、JST研究プロジェクト推進部上級主任調査員。87年に委託研究開発事業で赤﨑勇さんを担当。85年に名古屋大学工学部に赤﨑教授を訪ね、青色LED研究の意義をいち早く見いだし、研究支援と開発成功に結びつけた。研究支援の地味な裏方だが、「伝説の目利き」として評価されている。