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「2020東京五輪」シリーズ「成功への座標軸」〈2〉「学校体育で『スポーツ文化』の育成を」(佐藤 豊 氏 / 鹿屋体育大学 スポーツ人文・応用社会科学系 教授)

2013.12.24

佐藤 豊 氏 / 鹿屋体育大学 スポーツ人文・応用社会科学系 教授

鹿屋体育大学 スポーツ人文・応用社会科学系 教授 佐藤 豊 氏
佐藤 豊 氏

東京五輪は誰のために

 2020年の“東京五輪開催決定”の瞬間は、多くの国民が喜びを共有したのではないだろうか。トップアスリートが“母国東京”という舞台で活躍し、メディアを通して情報が発信され、付加情報として、選手の人となりや苦難を克服する姿が、人々の感動と国民の一体感を演出する。地域メディアも地元出身の選手の動向を伝え、全国的な関心事として、職場や地域の話題となる風景が浮かぶ。数千億円が投資された国家的プロジェクトの成果として、「投資に見合うだけの十分な効果が得られたかどうか」という評価は、“メダルラッシュ”という分かりやすい光景によって判断されるのかもしれない。

 しかしながら…、「スポーツに関わりのない」と考える国民は、いないのだろうか。スポーツに関わる一部の人たちのためのイベントであれば、「オリンピックに出場するスポーツ団体の自助努力と直接的な利益を得る企業で、共同運営すればよいのではないか」「公共的支援は筋違いではないか」という批判も受けよう。これからの100年、200年と続く“持続可能なスポーツ振興”につなげていくことが重要であると思う。スポーツの外側にいる人々も納得のいく方向性が示されることが、“成功の鍵”となるのではないだろろうか。

スポーツ・パーソンを育てる重要性

 スポーツが愛される理由は、「そこに山があるから」という言葉に代表されるように、「スポーツ」そのものの内在的価値が人々を魅了している。同時に、スポーツでなくても得られるが、「スポーツを通してより得られやすいこと」(手段としてのスポーツ)も、スポーツが認知される重要な要素でもある。

 例えば、言語圏が違っていても、初めて出会った人であっても、共通体験を通してコミュニケーションが促進されるといった「効果への期待」であり、子どもたちにとっては、技能を獲得する過程を通して得られる「思考力・判断力」であり、スポーツの対戦相手への礼節、賞賛、マナー、グループへの参画スキルの向上などの「教育的意義への期待」などである。スポーツが万人に受け入れられる理由はこうした“スポーツによる、スポーツを通した”知的学力や社会性の育成への期待でもあり、その点で、学校体育は「人間力の基盤を培ってきた」という自負がある。

 学校における体育の授業は、「息抜き」として存在している訳ではない。ましてや、アスリート発掘、養成のための機会ではない。運動部活動においても、「メダルを獲得するため」という理由で、勝利至上主義や体罰が再認されるということがあってはならない。社会に貢献する良質な“スポーツ・パーソン”を育てるという力点が見失われたとき、スポーツの外側にいる国民からの賛同は得にくい。

 2008-09年に改訂された中学校、高等学校の学習指導要領「保健体育」で、「体育理論」の指導内容の単元の提示および時間数が規定され、すべての生徒がスポーツの価値をこれまで以上に確実に学ぶこととなった。

 中学校では、「運動やスポーツの多様性」という単元から始まるが、スポーツには、自ら「行う」という楽しみ方のみが推奨されるのではなく、「みる」、「支える」などの多様な楽しみ方があり、よりよく生きていくための身近な文化としてスポーツが存在しているということを学ぶ。

 また、高等学校では、「オリンピックムーブメントとドーピング」という単元で、オリンピックムーブメントがアスリートの勝敗を競うための機会のみでなく、スポーツを通した国際親善や世界平和を希求する活動であることを学ぶが、その裏では、ドーピングと隣り合わせであることを問う内容である。あえて、スポーツの“危うさ”を提示することで、すべての国民が、スポーツを育てる実践者であるという視点で「みる、支える」側の倫理を問う学習がなされるのである(中学校は12年完全移行、高等学校は13年段階移行)。

育成の基盤は学校体育

 オリンピック開催までの財政的支援は、アスリート育成に向けた支出が組まれることが予想されるが、財政は「打ち出の小槌」ではない。本来必要とされる予算の圧縮の上で捻出されていることを、私たち関係者は肝に銘じたい。ましてや、巨額な予算で支えられたシステムの継続は難しく、祭典後に機能不全になることを避ける必要がある。

 東京招致の成功に水を差す気持ちはさらさらないが、競技力向上のみに重点化された行政判断が先行し、さらに国民も目に見える成果を過度に期待するとすれば、スポーツの基盤を支えてきた学校体育の衰退の危惧が現実化することもあろう。財政的に脆弱な県市町村では、すでにその兆しが見える。何事もバランスが重要である。基盤である「保健体育」という授業の機会の確保と充実を抜きにして、スポーツ全体の成熟が進むとは考えにくい。改めて、東京オリンピックが、「文化としてのスポーツ」を熟成するための加速装置となることを願っている。

鹿屋体育大学 スポーツ人文・応用社会科学系 教授 佐藤 豊 氏
佐藤 豊 氏
(さとう ゆたか)

佐藤 豊(さとう ゆたか)氏のプロフィール
1962年神奈川県生まれ。86年3月筑波大学体育専門学群卒業。2003年3月横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了。1986年4月神奈川県教育委員会主事、88年4月神奈川県公立高校教諭。06年4月国立教育政策研究所教育課程調査官(併任)文部科学省スポーツ・青少年局企画・体育課教科調査官。11年4月から現職。日本体育科教育学会理事、日本スポーツ教育学会理事。共著に『観点別学習状況の評価規準と判定基準 中学校保健体育編』(図書文化社)、『楽しい体育理論の授業をつくろう』(大修館書店)、『めざそう保健体育教師』(朝日出版社)など。

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