環境に配慮し、かつ安全で健康によい農作物の生産という課題に茨城県取手市のハーブと生食野菜の生産農家と共同で科学的視点から25年を超える年月取り組んで来たが、その結論は「硝酸性窒素」にあった。健康な土壌に適切な計算量の窒素などの要素分を施肥し健康な野菜を作ることが、環境への負荷が小さく、かつ持続可能な農業生産活動を行うための重要な鍵であることが分かった。
「植物が健康に育つ」とは、太陽の光エネルギーを得ての炭酸同化作用と豊かな良好な微生物活動を持つ腐植質のある土壌に根を張り、その発育段階に応じて各種栄養素を吸収しながら、植物体内では窒素同化作用によるタンパク質合成を中心として各種の代謝系が生理的調和を保って進み、生育していくことである。通常の植物は土壌中から窒素分を硝酸体窒素として吸収し、順調なタンパク質合成の下で吸収養分は無駄なく代謝系に組み込まれ、病原菌や害虫などの寄生者が好んで必要とする余分な可溶性成分は葉中に少なくなる。もちろん一般の葉物野菜の葉中の硝酸塩濃度も少なく、糖度が高くなり、ビタミンや機能性成分もしっかり含みおいしさが増す。そのような健康な野菜は保存性が高くなる。いわゆる高品質な農作物となる。
ところが、必要以上の窒素などの肥料が施肥されると、植物体内のタンパク質合成が順調に進まず、代謝系内に余分の硝酸、アミノ酸や糖類などの可溶性成分が停滞し、また養分バランスが崩れ微量元素の吸収にも影響を与える。これらの可溶性成分を多く含む植物体は害虫や病原菌の寄生者のオアシスとなる。野菜などの農作物には種々の病気が発生、また害虫による食害が出て農薬散布を余儀なくされる。
このようなタンパク質合成が円滑に進まず代謝系内に乱れが生じ、養分バランスが崩れ硝酸濃度の高い農作物は青々として立派に見えるものの実際は不健康な作物である。食味もわるく、必要な成分が満たされていないことが多く、漬けもの、煮物の調理性、加工性も悪くなる。保存性にも影響を与える。
農薬散布は野菜中の硝酸濃度を1.5〜1.8倍も高くすることが小松菜とミズ菜の栽培実験で明らかとなった。これは窒素同化作用の代謝系に影響を及ぼし順調なタンパク質合成ができなかったものと推察している。
野菜などから摂取された硝酸塩は口腔内で亜硝酸に還元され、胃内で亜硝酸塩は速やかに吸収され血液中に移行するとヘモグロビンを酸化しメトヘモグロビンになり、多量ではメトヘモグロビン血症を起す。1940年代に欧米でレトルトタイプのベビーフードの離乳食を食べた2,000人を超える幼児に被害者(ブルーベビー症)が出た。現在は発現例が見られない。また胃内でジアルキルアミンなどが存在すると酸性条件でN−ニトロソ化合物を生成する。このN-ニトロソ化合物は強い発がん性があるだけでなく、膵臓(すいぞう)のランゲルハンス島のβ細胞に影響を与え、インスリン分泌を抑制し血糖値の上昇に関与することがラットなどを用いた動物実験で認められている。硝酸値の高い農作物の喫食による人のがんなどの疾病の発現はまだ明らかでないものの警鐘として受け止めておかなければなるまい。
次に健康な農作物と有機農業の意味について考えてみたい。
農作物生産は化学肥料と農薬に頼った大量生産、大量消費の長き時代を経過し、環境破壊と生態系維持の危機に遭遇、環境保全型農業へとかじを切り減農薬、減化学肥料、そして有機農業推進へと歩んで来た。2000年1月に有機JAS(日本農林規格)が定められ、有機JASの農作物栽培には(1)使用する圃場(ほじょう)は最低3年以上農薬を使っていないこと(2)農薬を使わない(3)化学肥料を使わない(4)肥料を使用する場合は有機肥料のみを使用する-などの条件が付されることとなった。
しかし、有機JASには3つの大きな誤りがあることを指摘しなければならない。第1点は完熟堆肥を使用することが明記されていないことである。有機堆肥を施肥するには必須多量要素、必須微量要素を土壌と堆肥について事前に分析し、肥料設計による的確な施肥が行われることが少ない。また不完熟であるため肥料効果が遅く、アバウトな過剰施肥になってしまう。第2点は有機肥料の原材料は食品廃棄物、畜産廃棄物、草類・剪定(せんてい)枝など種々の有機物が使われるが、それぞれ要素成分内容が異なり成分バランスが取れていない。必要な要素成分を有機肥料だけで調整することは極めて難しく、化学肥料を混入し調整することが不可避である。第3点は有機栽培によって生産される農作物に病原性細菌、ことに人の食中毒を起こす細菌と回虫や蟯(ぎょう)虫などによる健康への影響回避が確保されていない、いわゆる安全の保証が何もないことである。2006年12月に「有機農業の推進に関する法律」が制定され、ますますこのような誤った有機農業が拡大していることに懸念を抱かざるをえない。
有機農業もその多くは有害細菌が死滅していない、かつ雑草種子が生きたままでアンモニアなどが多い不完熟な堆肥(たいひ)、いわゆる汚物が有機堆肥として畑に施肥されているのが現状である。畑にはにおいに誘われてか害虫が多くやってくる。つまり、そのような腐熟度の低い未完熟な堆肥が施肥された土壌では嫌気的微生物代謝による腐敗が起こっている。その腐敗ガスは糞(ふん)便のにおい成分であるインドール、スカトールを、またアンモニアや酪酸なども生成し、コメツキムシ、イエバエ、タネバエ、ジャガイモハムシなどの種々の害虫を誘因し産卵を促す。そのような不完熟堆肥には植物や人への病原性細菌も残っている。有機農業は完熟堆肥が基本で、堆肥と土壌の化学成分分析をした上で、目的作物に合った施肥設計をし「健康な耕作土壌」をつくることが大事である。慣行栽培を基準とした減農薬、減化学肥料による栽培作物、有機JASによる農作物に科学的論拠をもったデータを確保しての生産、それによる安全・安心を求めたい。
今の日本の農産物生産は良好な微生物活動のある健康な土壌づくりが第一であることを省みず、土壌殺菌に始まり、過剰施肥に偏り、そのため見た目は立派であるが不健康な作物群をつくりだしていると言える。不健康であるが故に害虫や病原菌が寄生し、農薬散布に頼らざる得ない悪循環であることに気がつかず防除暦の通り農薬散布を促す農業指導者…。その結果、不健康な農作物の生産になってしまう。多くの消費者は農薬が検出されない証明をもって安全と考えてしまうが、人や動物の健康には健康な土壌で育った健康な作物の喫食が重要であることをあらためて認識しなければならない。
このような農作物生産の現状を認識した茨城県の生産者グループは自主基準「茨城県最高品質農産物生産基準」を作成した。この基準はEuro-GAP、Japan-GAPをはるかに超える世界最高基準と考えている。今、米国の建築家William McDonoughとドイツの化学者Michael Braungartが中心となりつくった「サステナブルなものづくり」の世界基準「Cradle to Cradle」(ゆりかごからゆりかごへ)が注目されている。工業製品だけでなく、農作物生産の世界基準を作るべく両者は連携して活動を始めた。
及川紀久雄(おいかわ きくお) 氏のプロフィール
1967年千葉大学大学院修士課程修了(薬学)、財団法人日本環境衛生センター入所、1977年新潟薬科大学薬学部講師、同助教授、教授を経て、2002年同応用生命科学部教授、09年新潟薬科大学名誉教授。工学博士。現在、国土交通省北陸地方整備局水質アドバイザー、新潟県環境影響評価審査会委員、新潟市環境審議会会長も。専門は、環境安全科学、木炭・竹炭の高機能化、資源循環型エコシステム、農作物の安全と高品質の科学。著書に「人間・環境・安全-くらしの安全科学-」(共著、共立出版)、「科学でわかった安全で健康な野菜」(監修、丸善)、「環境と安全の科学-演習と実習-」(編著、三共出版)など。