オピニオン

日本に技術者倫理が根を下ろすには(杉本泰治 氏 / 日本技術士会 プロジェクトチーム 技術者倫理研究会 代表)

2008.12.03

杉本泰治 氏 / 日本技術士会 プロジェクトチーム 技術者倫理研究会 代表

日本技術士会 プロジェクトチーム 技術者倫理研究会 代表 杉本泰治 氏
杉本泰治 氏

日本の倫理は幸せか

 人は人間関係のなかで暮らし、そこでの対人関係において、してよいこと、してはいけないことの規範がある。倫理は、そういう対人関係の規範である。倫理がそういうものなら、普通の人にわかりやすい、優しいものであるはずだ。そうでなくては、普通の人は守れないし、守る気にならないから、規範として機能しないのである。

 そういう普通の人の倫理が、社会に居場所を得て、(すべての人とはいわず)ほとんどの人が違和感をもたなければ、その倫理は幸せである。人々がつねに意識して順守するほどでなくても、ときに気づいて、倫理とはこういうものだとわかればそれでいい。ところが日本には、普通の人の倫理はあっても、幸せといえる状況にはない。

“武士道”の主張

 日本で技術者倫理(engineering ethics)は、1998年ころ、先行の米国のテキストの翻訳による学習で始まった。そうすると、すぐに障害が現れた。米国の倫理を学ぶ必要はない。日本には世界に誇るべき武士道がある。ニトベ(新渡戸)の“ブシドウ(武士道)”があるではないか、という主張である。

 そうするうちに、2006年元日の朝日新聞「社説」は、ベストセラー『国家の品格』が「武士道精神の復活こそ日本の将来のカギを握ると唱えている」と紹介し、支持した。

 わが国の技術者倫理が、先行の米国に学んで始まったことは、エンジニアの資格・職業が国際化する現代、日本のそれを国際的に普遍性のあるものにする意義がある。武士道を言う主張は、逆に、“鎖国のすすめ”にもなりかねない。それにしても、なぜ、これほどの武士道賛美だろうか。

等身大の倫理

 わが国で1999年ころから、理工系の大学・高専で技術者倫理の教育が始まり、企業などで実務に従事するエンジニア(技術者)が倫理に関心をもつという方向が見えてきた。何十万人というエンジニアとその予備軍が、倫理の活動に参加することになったのだ。これは、この国で、普通の人のレベルでの倫理の、新しい指向である。

 従来、倫理といえば、高い所から説かれるもので、厳格・勇壮な武士道や、高尚・高等な学問という思い込みが強かった。技術者倫理を語るにも「厳格な倫理規範」が強調されることがあるが、このタイプの誤解は、普通の人の倫理がすなおに育つのを阻害することさえある。大切なのは、普通の技術者が守ることのできる、わかりやすくて、優しい、等身大の倫理である。

新渡戸『武士道』とグリフィス

 新渡戸稲造は、ベルギーの法学者から、日本は宗教教育なしで、どうしてモラル教育をするのですか、と問われて即答できなかったことなどが動機となり、封建制度と武士道を理解しなくては日本のモラル観念はわからないと思いついて執筆し、38歳の明治32(1899)年、米国で出版した。

 この本に、米人グリフィスの「緒言」がある。グリフィスは、福井藩主に招かれ、福井へは明治4(1870)年3月に入り藩校で教えるうちに、7月に廃藩置県の詔勅が出て、翌年1月まで、変革のまっただ中に身を置いた。

 「緒言」は発行書店が依頼したもので、推測すれば、少壮気鋭の日本人の著作に、日本体験のあるグリフィスの証明を求めたのだろう。そう思って読むと、新渡戸の本文は、当時における過去と現在の区別が、欧米の読者にはわかりにくいかもしれない。

グリフィスの「緒言」

 グリフィスは、「新渡戸博士は武士道を理想化したであろうか? むしろ、われわれは問う、彼はどうしてそうしないでおられたであろうか」といい、「一粒の麦、地に落ちて死なずば」を引用し、武士道は死んだけれど、日本は、自国の最善のものを失うことなく、世界が提供する最善のものを取り入れ、同化した、と述べている。

 このグリフィスの「緒言」は、矢内原忠雄訳(岩波文庫。1974年に矢内原伊作が改版)には出ているから、それを読んだうえで本文を読むと、新渡戸が描いた武士道がよくわかる。近ごろの新訳にはグリフィスの「緒言」がなく、グリフィスが与えた史的観点に気づかないきらいがある。近年の武士道賛美は、そのせいかもしれない。

日本の技術者倫理の方向

 昔の武士道が、社会体制が変わった現代に、復活することがあるだろうか。倫理は対人関係の規範である。現代の技術者の対人関係は、かつての武士たちの対人関係とはすっかり違っている。現代、科学技術を人間生活に利用する役割をになう技術者は、現代の対人関係に適した倫理を、自分で築かなくてはならない。

 日本の技術者倫理は、国際的普遍性と並んで、この国の社会の特殊性に対応する必要がある。それには上に述べた要因などいくつかの障害があり、一つずつ片づけるのは難しくはあるが、社会に根を下ろすためにやらなければならない作業である。

日本技術士会 プロジェクトチーム 技術者倫理研究会 代表 杉本泰治 氏
杉本泰治氏
(すぎもと たいじ)

杉本泰治(すぎもと たいじ)氏のプロフィール
1953年金沢大学工学部工業化学科卒、化学品の製造企業に勤務、企業経営を経て、86年名古屋大学法学部法律学科編入学、88年卒業。技術士(化学部門)。76年T.スギモト技術士事務所開設、東京工業大学、東京大学など「技術者倫理」非常勤講師を歴任。2002年から(社)日本技術士会プロジェクトチーム技術者倫理研究会代表、03年からNPO法人科学技術倫理フォーラム代表も。著書に「経営と技術のための企業倫理」(丸善、05年)、「技術者資格-プロフェッショナル・エンジニアとは何か」(地人書館、06年)。「科学技術者の倫理 <初版>」(ハリスら著・日本技術士会訳編、丸善、98年)の訳者代表、「環境と科学技術者の倫理」(ヴェジリンドら著・日本技術士会環境部会訳編、丸善、2000年)の共同責任編集も。

ページトップへ