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重層的な脳科学研究を(吉田 明 氏 / 自然科学研究機構 生理学研究所 特任教授)

2008.10.16

吉田 明 氏 / 自然科学研究機構 生理学研究所 特任教授

自然科学研究機構 生理学研究所 特任教授 吉田 明 氏
吉田 明 氏

 社会的にはいわゆる脳ブームも手伝い人間の意識や行動と脳機能の関連が大きな関心事となっている。また、認知症やうつなど生活に身近な問題では予防や治療への成果が期待され、さらに、産業からの視点では、インテリジェントな技術の開発などへの要求もある。一方で、こうした何かに役立つからということではなく、「自分は何者か」ということを知りたいといった人間が持つ根源的な欲求が脳科学に対する関心の高まりの背景にあると思われる。

 ところが、このような社会のニーズや知的欲求に対して、脳科学の知見はまだ十分、いやほとんど答えることができない。実社会が求めるニーズと脳科学研究の進展のレベルの間には大きなギャップが存在するのである。また、社会ニーズと研究ニーズにも別のギャップがある。研究者の多くは応用研究も含めて「知の創出」を目指している。知の創出やそのための支援が研究側のニーズであり、社会ニーズの多くと直接は合致しない。科学技術政策には、これらのギャップを踏まえた知恵が求められる。

 知の創出を目指すものを「研究」、社会へのアウトカムを目指すものを「開発」とここでは考えることとする。今後は「研究」から「開発」へ資源を振り向けるべきだという意見が短絡的には出てくるであろう。これは社会ニーズに対応する知識の蓄積がなされた「知の創出」が成熟した分野について考えられる方策である。あるいは、不十分な知識の蓄積であっても特定の事象が社会ニーズの解決に利用可能であると判明したものについては有効である。

 前者については、脳科学は全体としてはいまだ社会ニーズと大きなギャップがある分野であり、「研究」から「開発」への資源配分のシフトはなじまないと考えられる。一方、後者の事例としてはブレイン・マシン・インターフェース(BMI)などがあげられる。BMIの根幹にある脳内情報の読み取りは、どのような脳内の仕組みによりその情報が生成されているかなどほとんど分かっていないが、腕の運動の推定に用いることが可能であることが判明し、それを活用する身体補助機器の開発が推進されようとしている。

 では、「研究」に投資するフェーズにある大部分の脳科学研究の推進はどのように進めればよいのか。まず近年の脳研究の動向を大づかみに見ると、神経やグリア細胞の機能にかかわる機能分子、特にタンパク質の局在や活性などが詳しく理解されるようになり、機能分子のネットワークの挙動から細胞機能が理解されようとしている。さらに、ゲノムの解読完了を契機に疾患を中心とした疫学的な解析から脳機能と関連する遺伝子の同定が精力的に進められており、また、遺伝子改変動物を用いて遺伝子が個体の表現型とどうかかわるのかについても知見が蓄積してきている。

 一方で、非侵襲的な脳イメージング技術の発達により、意識や行動と脳活動との関連が解析され、発達過程での脳構造の変化を追跡することなども可能となり、認知科学などの人文・社会科学との接点が広がりつつある。さまざまな研究の進展が見られる一方で、こうした研究をつなぐ部分にまだ踏み込めてはいないのではないだろうか。分子から行動までのそれぞれの階層内を対象とする研究課題・領域は大きな成果を挙げているが、それらの間の連結ができていないように思われる。

 ライフサイエンス全般にいえることであるが、この階層性をつなぐ科学(領域)が成熟していない、いや生まれてさえもいない。それが社会ニーズにとって重要な個体(ヒト)のレベルでの理解に脳科学全体がつながって行かない理由の一つではないだろうか。階層性をつなぐ新しい領域を発展させるためには、脳内での神経回路、神経回路における単一細胞、細胞中での機能分子のダイナミクスを計測・操作する技術の開発と数理的な理論の基盤構築が求められるであろう。特に脳機能を理解することは遺伝子や細胞機能に還元することだけでは達成できないと考えられ、遺伝子や細胞の精緻で網羅的な記載を進めるとともに、それを活かすことのできる理論やモデルなどの研究が両輪となって進んでいくことが重要である。

 これには異分野を巻き込んで脳科学研究自体が旧来の細分化された体系ではない在り方に変容することが必要ではないだろうか。欧米の科学技術政策(米国立衛生研究所=NIHのロードマップなど)は、そうした既存の学術研究や個別研究に対して重層的に設計されており、個々の事業の足し算ではなく相乗的に効果を引き出そうとしているように思われる。最近取り沙汰される米国のトランスフォーマティブ・リサーチなどはさらにそれを発展させ、漸進的な推進ではなく融合の中から新たなコンセプトの飛躍へ結びつけようという試みであり注目される。

 本質的に総合的で融合的な脳科学の推進にとって、わが国の科学技術政策にも視点の変更が求められる。現状のように省庁ごとや事業ごとに違いを出して区別するいわゆる「整理学」や重点化を追求するのではなく、重複を積極的に活かして個別の事業の足し算ではなく相乗効果を引き出す戦略性が重要であり、そのように変わることを期待する。

自然科学研究機構 生理学研究所 特任教授 吉田 明 氏
吉田 明 氏
(よしだ あきら)

吉田明(よしだ あきら)氏のプロフィール
1986年大阪大学理学部生物学科卒、91年同理学研究科生理学専攻修了(理学博士)、91年三菱化学生命科学研究所特別研究員、93年早稲田大学人間総合研究センター助手、97年長崎大学薬学部助教授、04年科学技術振興機構研究開発戦略センターフェロー、08年自然科学研究機構生理学研究所特任教授。専門は分子神経科学。

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