オピニオン

言葉としてのサイエンスが意味するもの(木村政司 氏 / 日本大学 藝術学部 教授)

2006.12.05

木村政司 氏 / 日本大学 藝術学部 教授

日本大学 藝術学部 教授 木村政司 氏
木村政司 氏

 1985年にサイエンティフィック・イラストレーションという肩書きを背負い、アメリカから意気揚々と日本に帰ってきたときから20年以上の月日が経った。当時はほとんどこの職能は知られてなかったし、いまでも知られているとは言い難い。それどころか、昆虫や恐竜の絵を作品としてではなく、ドキュメンテーション(記録)として、その研究者のために描くといったプロフェッショナルの仕事が、博物館にあることは現在もあまり知られていない。描いたものが半永久的に残され、科学の役に立っていくという素晴らしい仕事があることを知った瞬間から、私の生き方が変わった。

 日本にはコマーシャル・イラストレーションで稼ぐプロは多くいる。私もかつてはそうだった。彼らは何でも描いた。しかし、イラストレーターがアカデミックな領域で活躍でき、それで生活できるのは極めて不可能だった。アメリカのナショナル・ジオ・グラフィック誌のようにサイエンティフィック・イラストレーターがサイエンティストと対等に扱われるような仕事はほとんど無かった。日本ではその道の専門家や科学者が自ら絵を描き、論文の図版として発表するケースがほとんどである。

 要するに日本の科学の世界にはデザイナーやアーティストのような、その道のプロの力は必要としなかったし、かなり低い地位で見られていたことは確かである。それは未だに原稿料が画料、イラストレーターが絵描きといった言葉で扱われていることで、根の深さが分かる。意識は言葉に表現される。イラストレーションは挿絵の扱いを永年にかけて受けてきたことは、紛れも無い事実である。

 予算が無いからイラストレーションが頼めないという理屈は、予算が無いから文章も研究も頼めないということと同じだ。科学研究費が典型である。科学への貢献は文章だけではないはずである。素晴らしい科学は、強いコミュニケーション力を持っている。それはアメリカのスミソニアン博物館のあり方でよく伝わる。アーティストやデザイナーの力を本当に頼りにしている。学者がアーティストを頼り、アーティストはサイエンティストを尊敬している。

 そんなあり方が無性にうらやましかった。がゆえにそんなあり方が日本でも可能だと信じてきた。答えは、博物館のあり方、寄付に対する税金のあり方、サイエンスの教育、語学教育のあり方が変わらない限り無理である。変わるとしたらそれは日本のあり方が変わるときである。そう願う。

 サイエンティストのアートに対するコンプレックスなのか?それとも、アーティストのサイエンスに対する無関心なのか?私の知る限りでは、それ以上の伝統と前例主義が二つをきっちりと分けた。理科系と文科系という分け方のように。科学者も芸術家もプライドが高く、狭い領域の中で深く探求している人々が多い。

 なぜこんなことを改めて書いたかというと、理由がある。最近行ったサイエンス・コミュニケーションのイベントを観て気付いたことだ。今でこそ、サイエンス・コミュニケーションという言葉は流行言語と化して、文部科学省から研究費をもらうための都合のいいものとなった。私自身も同じ穴のムジナになっている。サイエンスを魅力的に啓蒙し、問題点を分かり易くジャーナリスティックに探求し、良いも悪いも伝える事は極めて大切な事だ。しかし、そこにはサイエンスとアートの融合がより広がりをつくると言ってきたにもかかわらず、融合せずに広がっているだけのように感じた。

 広がっただけでも、今までよりはるかに科学は面白くなった。日本でいう科学ではなく、サイエンスという言葉の持つ本来の意味を意識したとき、そこには必ず融合することの必然性に気付く。サイエンスという単語が一般化し始めたのは、先端科学のみでなく、自然と環境、人間の営みを司る森羅万象をサイエンスとする本来のセンスが広まってきたからかもしれない。人間の考え方が融合するのはそれほど難しいことではないはずだ。

 サイエンスはアートであり、アートはサイエンスである。サイエンスはアートによって輝き、アートはサイエンスを必要としている。ではそう叫んでいるだけでなく、どうやってその魅力を創作していくのかが、私の可能性への挑戦である。アートという分野にサイエンスを取り込み、サイエンスという考え方でアート&デザインをすることに、サイエンス・コミュニケーションの本質を見出したい。

 こう書きながら自分を縛り、自分に言い聞かせているのはまさしく私のやり方である。とてつもない時間がかかるかもしれないが、きっとそれだけの時間が過ぎたときには新しい言葉に進化し、今のサイエンス・コミュニケーションとは全く違う言葉になってといるに違いない。ひとは言葉に縛られ、言葉に影響されるからこそ、新しい言葉を創作し新しい世界に挑戦すべきであるとつくづく思う。

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