近年、情報化が進む中で公衆衛生などの医療分野でもデータに基づく意思決定がますます重要になっている。最先端のベイズ統計の手法を駆使した研究で感染症対策に貢献し、人々の健康を守っている米ボストン大学公衆衛生大学院アシスタントプロフェッサーの塩田佳代子さんに、データに基づく感染症対策について話を聞いた。
コロナ禍の中でいち早く信頼できるデータを示す
―感染症といえば「新型コロナ」が記憶に新しいです。流行・対策の状況などのデータを示すのにも統計的な処理が必要と思いますが、塩田さんはコロナ禍に対してどのような研究をされたのでしょうか。
まだワクチンが開発される前、2020年夏頃に累計感染者数を推計するプロジェクトに取り組みました。感染者を見積もるのによく使われる手法は抗体価の調査です。当時、私たちのチームは米国立衛生研究所(NIH)の助成金を得て全米50州の抗体価調査を行い、その中でコロナウイルスの抗体は時間と共に減少していくことを見いだしました。たとえば、ある時点で全体の30%の人が抗体を持っていたとしても、実際に感染した人はそれ以上いると分かってきたのです。
感染した直後の抗体価の増加データはありましたが、長期的な減衰については調査研究が進められているところで、データがそろうまで何カ月もかかる状況でした。パンデミックの中では、いかに早く信頼できる科学的エビデンスを示せるかが非常に重要です。コロナの死亡率を推定するにしても母数が分からなければならず、「何人が感染したのか」をいち早く知る必要がありました。そこで、米疾病予防管理センター(CDC)の2週間ごとの抗体調査データを用いて、集団レベルでどのくらい早く抗体価が減衰するのかを推定しました。
―その推定にベイズ統計を用いられたのですね。
はい。抗体価と死亡者数の時系列データをもとに、感染した人がどのくらいの期間抗体陽性になるのかを推定しました。抗体価が減衰する平均期間を90日、100日などと仮定してシミュレーションし、実際のCDC調査のデータに合致する日数を探し出しました。日数の大きい/小さい順に調べるのではなく、2日や1000日、30.0197日など1日刻みより細かい値も含めて検証し、より実際のデータに近づく値を探していく方法をとります。何百万回も試行して一番データに近づく収束値、つまり集団レベルで抗体値が減衰する期間を見つけました。そして、この値を使って抗体調査のデータを補正することで、これまでに感染した累積の人数を推定することができました。
このときの研究では、集団を構成する人々の中でどのくらい早く抗体がなくなるかというデータの分布を予測する必要がありました。そういうことができるのがベイズ統計の特徴です。ベイズ統計自体は昔からありましたが、コンピューターの性能が圧倒的に足りていなかったために広くは用いられていませんでした。コンピューターの処理速度が上がったことで、普通のラップトップでベイズ統計を扱えるようになりました。公衆衛生も含め多くの分野でベイズ統計が用いられている現状には、IT技術の進歩が大きく寄与していると思います。
「もしも」の世界と現実を比較する
もう一つ、イェール大学での博士課程の頃の研究についてお話ししましょう。この研究では子どもの命に関わる感染症の一つである小児肺炎球菌を対象とし、ワクチンの効果を評価するために「ある国で小児肺炎球菌ワクチンを導入しなかった場合、肺炎球菌感染症に何人がかかったか」を推定するベイズ統計モデルを開発しました。この「実際には起こらなかった出来事」は「反事実」といい、「事実」と比較することで因果関係を推理するのです。
―「もしも」の世界と現実を照らし合わせてみるということでしょうか。
そうです。単純にワクチン導入前後の平均感染者数や死亡者数を比較するだけでは、たとえばたまたま感染症が流行していない時期だったのか、ワクチンの効果が出ているのかの区別はできません。また、特に低・中所得国では上下水道の整備で公衆衛生状況が日々改善されるなど、ワクチン以外の要因でも多くの感染症が減ってきています。逆に新しい病院が建設され医療へのアクセスが改善することで、結果的に観測される症例数が増えるということもあるのです。
ただ、こういった社会的な要因はさまざまな疾患におしなべて影響を与えるので、肺炎球菌感染症以外のがんや心臓病といった病気などを比較対照として、その減少(増加)傾向から反事実を推定することができます。世界保健機関(WHO)が定めている国際疾病分類(ICD-10)で管理されている医療機関の診療データを分析するのですが、比較対照の候補はけがや交通事故、がんや心臓病、皮膚病、神経系疾患など何百種類もあり、どれが主要なものかを客観的に判断することは難しい課題でした。
そこで、経済学の分野で使われていた合成コントロール法(Synthetic control method)という主要な変数(比較対照とする病気など)を見極めて重み付けする統計モデルを使ったり、それをさらに応用させたベイズ統計モデルを開発したりしました。これらのモデルを使ってワクチンを導入していなかった場合に肺炎球菌感染症にかかった子どもの数を推定し、実際の患者数と比較して「ワクチンを導入して約4500人の子どもの命が救われた」というように評価することができるようになりました。
―ワクチンを導入する前の臨床試験でも効果を確認しているはずですが、なぜ導入後の評価が必要なのか教えてください。
様々な理由があります。ワクチン導入前の臨床試験の多くは、高所得国で限られた集団に対して短期間で行われます。高所得国で得られたデータに基づいて、同じワクチンを低・中所得国に導入することがよくあるのですが、そのときに低・中所得国では効きにくくなることがあります。たとえば日本やアメリカでは85%の症例が減ったのに、同じワクチンをアフリカ諸国に導入したら10~40%しか減らなかった、ということもあります。
低・中所得国では低栄養状態の子どもが多かったり衛生状況が良くなかったりするために、生まれてから非常に多くのウイルスや細菌にさらされ続けているということも原因と考えられます。防弾チョッキを着ていれば1、2発の銃弾は防げますが、仮に100発打たれたら防ぎきれないようなものです。
また、同じワクチンを使っていると耐性を持つ変異株が出てくることもあります。本当に効き続けているのか、モニタリングすることも重要です。このとき開発した統計モデルを用いて、WHOと共同で中南米の20以上の国や地域でワクチンの評価をし、各国のワクチン政策につなげてきました。
責務を全うしながら、自分のやりたいことを追求する
―塩田さんの今後の抱負や研究への想いを教えてください。
直近の目標は、CDCが組織する数理モデルの研究機関・研究者の全米ネットワーク「インサイトネット」の一員としての責務を全うすることです。前回のコロナ禍に際しては国レベルの統制が十分ではなかったという反省に基づいて、将来のパンデミックに備えて、よりクリアにより早く、より協力して対応できるようにという取り組みです。非常時における政策決定や適切な情報発信に、数理モデルが適切に貢献できるようにしていきたいと思います。
一方で、トップダウンの取り組みに携わるだけでなく、大学という環境で研究を進められることもありがたいと感じています。研究費を獲得してくる必要はありますが、自分が意味を見いだしてやりたいと思うことを誰にも止められずにできるのが、アカデミアの良いところです。これまで中南米やアフリカなどの30カ国以上の国や地域で研究を行ってきましたが、それらは今も継続しています。誰かに言われるのではなく、自分が必要だと考える研究を進められるのはすごく楽しいことですよ。
関連リンク
- ボストン大学公衆衛生大学院プロフィールページ(英文)
- Insight Net: National Outbreak Analytics & Disease Modeling Network(英文)
- Webマガジン|Science Window 2024年冬号 24頁「ミニ知識 ワクチンは何人を救ったか?」