宮城県のほぼ中央を東西に流れる名取川。清流として名高い広瀬川を支流に持つ一級河川であるこの川は、2011年3月11日の東日本大震災が巻き起こした未曾有の大津波などに襲われ、甚大な被害を受けた。あの日から約10年が経過した名取川の現状は―。7つの大学や研究機関から多様な研究者が集うプロジェクト「東北マリンサイエンス拠点形成事業(TEAMS)」の一員として、地域に暮らす人々とともに名取川の復興にあたった東北大学大学院農学研究科准教授の伊藤絹子さんに聞いた。
憩いの場の大被害にショック
―まず名取川の特徴を教えてください。
仙台市と名取市の境を流れる川で、両市民にとっては憩いの場のような存在です。支流の広瀬川は、環境を守るための保護条例(昭和49年制定・仙台市「広瀬川の清流を守る条例」)が全国で初めて制定されたことや、歌謡曲でも知られており、古くから地域の人々に大切にされてきました。
水産資源も豊富で、魚類はアユ・ヤマメ・イワナ・サクラマスなどが生息しており、特にサケはものすごい数が遡上します。また、名取川は海水と淡水が入り混じる汽水域が長く、汽水環境を好むヤマトシジミやアサリなどの二枚貝が豊富に生息し、地域の盛んな漁業を支えていました。
―震災後の状況はどのようなものだったのでしょうか。
直後の約5カ月間は、立ち入りが禁止されていました。行方不明者の捜索が優先されたためです。立ち入りが許された後に初めて名取川へ足を運んだときは、被害の大きさにショックを受けました。アユが全くと言っていいほど採れず、二枚貝も死骸だらけ。でも、よく探すと少しだけアユの姿が見えたのは、嬉しかったですね。
激減したアユが順調に回復、シジミは生息域を拡大
―伊藤さんの調査で明らかになったことや、その後の状況などは。
震災の影響や、その後の回復の度合いは、種によって大きく異なります。まずはアユからお話ししますと、前述のとおり震災直後は目に見えて数が減っていました。
アユは1年で生涯を終える「年魚」です。秋に川で生まれ、すぐに海へと下り、海で暮らした後、春に川へと遡上を始め、川で成長し、秋に産卵して一生を終えます。つまり震災が起きた時期は、河口付近で海からの遡上を控えていた頃。そこを津波が襲ったため、大きな影響が出たのです。実際、漁師さんの協力のもとで投網による捕獲調査を行ったところ、遡上したアユの数は激減していました。
しかし希望もありました。アユは産卵期の幅が広く、遅い時期に生まれたアユが、まだ海に残っていたのです。私たちは漁協と協力し、このグループのアユの保護に努めました。
―具体的にどのような取り組みをしたのですか。
漁協が中心となって、アユが産卵しやすいように河川の環境整備を行いました。同時に私たち研究者は生態調査を行い、環境整備の効果を検証しました。その結果、アユは順調に数を回復し、現在はほぼ震災前の水準にまで戻ったことが確認できています。
―では、大量死してしまった二枚貝のその後はどうだったのでしょう。
ヤマトシジミとアサリ、いずれも河口・汽水域に生息する種ですが、性質には少し差があり、その差が後の経過を大きく分けました。ヤマトシジミは結論から言うと、今は震災前の2〜3倍に増えています。ただ、この10年で様々な変化がありました。
ヤマトシジミはアサリに比べ、塩分濃度が低い上流部を好む性質を持っています。このエリアは、川底が震災によって地盤沈下したため、海水の流入量が増えてしまいました。その結果、河口に近いエリアは塩分が濃くなって生息数が減ったものの、海水がより上流部まで届きやすくなったことで、生息域が約1キロ上流まで広がりました。
アサリは状況厳しく、川砂除去で対処
―対してアサリはどうでしたか。
震災直後は死骸だらけだったものの、2011年秋に宮城県が行った調査では、稚貝が高密度に存在していることを確認できたため、自然回復を期待していました。実際、私も漁師さんからの要請を受け、2013年6月から調査を開始しましたが、成貝・稚貝ともに採集できていたため、順調な回復を確認していました。
しかし、2カ月後に事態が大きく変わります。7月下旬に約1週間の長雨が続いたことで、汽水域の塩分濃度が下がり、アサリの生息域がほぼ淡水化してしまったのです。アサリは、2~3日ならば淡水でも生きていけますが、1週間も続くとさすがに厳しく、結果として大量死してしまいました。母貝がいなくなってしまったことで、今も厳しい状況が続いています。
―大雨の影響であって、震災とは無関係のようにも感じました。
「導流提」という、水の流れを安定させるための堤防が震災の津波で破壊され、砂が海から川へと流入するようになってしまったのです。これによりアサリが生息していた河口付近の砂州(さす)が拡大し、水深が浅くなりました。その影響で海水の流入量が減り、長雨による淡水化の影響を受けやすくなってしまったのです。
実は漁師さんから「砂が入って、河口付近の幅が狭くなった」という声を聞いていたので、心配はしていましたが、ここまでの影響が出たことは予測を大きく超えていました。
―TEAMSとして何かアクションを起こしたのでしょうか。
TEAMSの調査から、河口付近の砂を除去する必要性が明らかになりました。このとき私は、詳細なデータやコメントを漁協に提供し、それらをもとに漁協が国土交通省と宮城県に請願書を出したことで、2015年6月から砂の浚渫(しゅんせつ)や導流提を再建する工事が行われました。
漁協と研究者が共通の課題を持ち、ともに行政へと声を届けたことで、震災で崩れた環境のバランスを変えることができました。その結果、低密度ですがアサリが戻ってきていること、現場実験での成長が確認できていることから、今は自然の回復力を待っているところです。
社会と良好な関係を築くには
―話の端々から、伊藤さんが漁師の方々と良好な関係を築いていることが伝わります。心掛けてきたことはありますか。
私の調査・研究は、漁師さんの協力なしには成り立ちません。アユの数を調べるにも、漁師さんに船を出してもらい、投網で捕獲してもらう必要があります。ですので、私は漁師さんの協力を得て実施した調査の結果を、毎年必ず報告するようにしています。加えて、何か困りごとがないか、常に聞くようにしています。そうするうちに、些細なことでも相談してくれるような関係が築けました。
―地域に暮らす人々と協働する中で、「科学に求められる役割や期待」をどのように感じましたか。
東日本大震災のような未曾有の大災害が起きたとき、人々の生活の再建は待ったなしです。研究者が確定的な証拠をつかむまで、社会は待ってくれません。研究者には、多角的な視座から復興に向けたシナリオを立てることが求められます。社会からの期待に科学がどこまで応えられるかが重要だ、と感じながらプロジェクトに臨んでいました。
科学や技術だけで解決できないことがある
―TEAMSの約10年の活動を振り返ってみて、どのような感想をお持ちですか。
震災前、私は人間が自然に介入せずに生きることはできないと思いつつも、人間の都合だけを優先させてしまう傾向があることに疑問を感じていました。そして東日本大震災が発生。科学の力で地域の人々の営みを取り戻すべく、私は張り切ってTEAMSに参画しました。しかし、10年経っても元に戻らない部分が残り、科学や技術だけで全て解決できるものではないことを痛感しています。科学の力で人々の生活を支えている手応えまでは、残念ながら得られていません。
でも、TEAMS全体をみますと、世界中で役立てることのできる知見が凝縮されたプロジェクトだったと思っています。また、自然の生命力のすごさ、生産力の大きさを改めて知ることができ、それらの知見を水産の現場で努力されている漁師さんたちと共有できたことは、大きな成果だと思っています。
プロジェクトは今年度で終わりますが、今後はこの知見をどう生かしていくかが問われると思っています。
子どもたちには自然の2面性を知ってほしい
―今後のことで、既に計画されていることがあれば教えてください。
私の研究活動の大元にある思いは、科学の助けを借りて持続可能な社会を構築すること。この思いは、TEAMSの活動を通じて少しずつ実現することができました。TEAMSや震災で得た知見は、防災、環境、教育など、様々な角度から他の地域に展開していきたいですね。中でも、まずは将来を担う子どもたちにこの経験を伝えていきたいです。具体的には、生態系を学ぶ上での材料を提供する必要があるでしょう。
子どもたちには、自然には2面性があることを知ってほしいです。毎日自然からの恩恵を受ける一方で、人間の力では避けられないこと、制圧できないこともあると理解しなくてはなりません。自然の仕組みを知ることは、地球に生きる上での大前提だと思うのです。なので、楽しい体験をたくさんしてください。私も海や川に行って、魚を見て感動し、時には怖さも教わってきます。そうしたところから、自然との共存や生態系の成り立ちについて考えてもらえればと思っています。
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