インタビュー

第8回「『科学の文化』を日本に根付かせる」(永山國昭 氏 / 総合研究大学院大学 理事、自然科学研究機構生理学研究所 名誉教授、JST科学コミュニケーションセンターフェロー)

2015.02.03

永山國昭 氏 / 総合研究大学院大学 理事、自然科学研究機構生理学研究所 名誉教授、JST科学コミュニケーションセンターフェロー

「科学コミュニケーション百科」

永山國昭 氏
永山國昭 氏

永山・小泉ユニットで「研究者ソサエティーと社会の連携に関する実践的研究」としてスマホ顕微鏡を活用した活動などに取り組んでいる永山さん。生物物理学の研究者として常に第一線を走りながら、イギリスの「科学文化」に影響を受けて、一般の人たちにも科学を楽しんでもらうための活動を続けてきました。研究者にとっての「科学コミュニケーション」についてお伺いしました。

―永山さんは長年、NMR(核磁気共鳴)や電子顕微鏡の研究開発に携われていらっしゃいました。研究者としての経緯をお伺いできますか。

 大学院の修士課程から生物物理をやってきました。生物物理は、生物の複雑な動きを物理的に解明するというものですけれども、私は生物を対象とする実験の測定原理、観測装置を組み立てるということでやっていました。

1960年代の終わりの修士課程のとき、次の数十年間でどの分野が発展するか考えると、当時は生物機能の根幹であるたんぱく質構造がほとんど知られていませんでした。あと遺伝子情報も知られていませんでしたけれど、たんぱく質のような具体的な機械機能を持つ物質の方が好きだったので、たんぱく質を選びました。機械としてたんぱく質は構造が重要です。当時はエックス線による結晶解析法がありましたが、全く新しい方法で構造解析ができないかと考えたときに、化学で使われていたNMRに出会いました。

当時、革命的なイノベーションがありました。スイスのリチャード・エルンストが、パルスNMR法というものを発明したのです。のちにノーベル賞を受賞することになるのですが(1991年化学賞)、その発明はあまりにも衝撃的でした。修士1年生のときに論文で知ったのですが、それを見た瞬間、こんな美しい世界があるのかと思いましたね、数学的な考えが物理の装置として物質化されたことに非常に惹かれたのです。この方が僕の師匠だと決めたわけです。一生NMRをやるつもりでいました。たんぱく質の構造解析をやりたいと、それにはエルンストの方法が有効だと直感しました。

エルンストの論文に出会ったことがすべてで、研究人生を決めたと言っていい。この人のところに留学すると決心し、10年後に本当に実現しました。僕の発表した博士論文研究がNatureのニュースに載り、世界的に有名になり、それを見たスイスの教授2人が新しいプロジェクトを始めるために、ポスドク(博士研究員)として僕を呼んだのです。その一人がNMR装置開発のエルンストです。もう一人がNMRの生物応用専門家のクルト・ビュートリヒです。1970年代にエルンストは、パルスNMRの次の発展として二次元NMRを発明しました。それを使ってたんぱく質の構造解析をするという10年がかりのプロジェクトに、僕は真っ先にかかわったわけです。

―子どものころからずっと研究者志望だったのですか?

 決定的なのはスプートニク・ショックです。小学校5年か6年の時でした。その前から漠然と科学者になりたいと思っていましたが、その事件が決定的でした。サイエンスならなんでもよかったのですが、装置に興味がありましたね。自分が宇宙へ行くというより、そのための装置を作りたかったのだと思いますね、たぶん。

工学的モノ作りというよりも、もっと原理に興味がありました。誰かが発見した原理を使ってモノを作るのではなく、原理を発見したかったんですね。それで物理にいったのです。時代の先端(エッジ)、科学のエッジに行きたいと思いました。生物は複雑でわかりにくいエッジの典型だと思いました。たんぱく質が本当に機械なら、物理が応用できるはずだから生物物理を選びさらに次のエッジはNMRと思い定めました。それは実際正しかったわけです。そのきっかけはエルンストの論文だったけれども、それが二次元NMR、三次元NMRとどんどん発展して行く渦中に僕はちょうどいたわけです。さらにたんぱく質の構造解析に発展し、その大部分を担ったのがクルト・ビュートリヒで、彼も2001年にノーベル化学賞をもらいました。それが1960年代の終わりから1990年代の初めまでの25年間の研究人生です。

―研究者から科学コミュニケーションに携わるようになったきっかけは何だったのでしょうか。

 1990年代の初めにたんぱく質集積のプロジェクトをやりました。たんぱく質は分子機械なのだからIC(集積回路)のようなものを作ろうとしました。たんぱく質は機能を持った素子なので、それを並べれば集積回路ができると。今では多くやられていますが、それを1990年代初めにERATOたんぱく集積プロジェクトとして実行しました。そのころに書いた論文は今でも多く引用されています。そこでいろんな成果がでて、イギリスの王立研究所から声がかかって、金曜講演でたんぱく質集積プロジェクトの話をしました。1997年2月のことです。金曜講演はマイケル・ファラデーが250年前に始めた一般向けの科学講演です。そのとき、イギリスには科学の文化がある、僕の講演はエンターテイメントで、聞きに来るのは研究者ではなく一般市民で、僕の話を楽しんでいることに気づきました。

「科学の文化」ということを、帰国してからいろいろな雑誌に書きました。金曜講演は何を意味するのかと、研究が大切なのではなくエンターテイメントとしての科学文化、それが重要なのだと言いました。ちょうど理科離れ問題がクローズアップされた時期で、JST理解増進室から顧問として来て欲しいと声がかかりました。サイエンスレンジャーという、今のサイエンスコミュニケーターのさきがけです。そこで、子どもたちに生物のモノ作りの根幹自己集積の世界をどのよう見せるかと考えました。一円玉を水の上に浮かべると、みんな集まってきます。自己集積はそういう現象だと示し、ビデオも作りました。

それが科学コミュニケーション活動のきっかけです。

―当初は、サイエンスレンジャーのように教師と生徒の間に立つ位置づけで活動をされていらっしゃったのですね。

 科学者が教育現場にそのまま入っていくのは難しいですが、科学の面白さや楽しさ、センス・オブ・ワンダーを伝えることはできると思いました。サイエンスは面白いし、わくわくする、ということを伝えれば教育現場とはまた違う形で子どもたちは興味を持つのではと思った。そういうものをストレートに伝えていくために、しばらくは自己集積の一円玉の実験を見せていました。

当時は東京大学教授として、学生の教育とアウトリーチ活動の二足のわらじをはいていたのですが、研究に専念することはできませんでした。でもやっぱり研究がしたい、となったときに生理学研究所から声がかかりました。NMRの研究をやってほしいということだったのですが、僕は次のエッジとして電子顕微鏡でたんぱく質の構造解析をやりたかった。電子顕微鏡は原子も分子も見える。それならたんぱく質も見えると思ったら、実はとんでもなかった。たんぱく質は電子線で壊れてしまうので見えない、そこで感度向上のため位相差顕微鏡が必要になりました。弟子と2人で始めたのですが、ほかに誰も追随できず10年間世界の中で独壇場でした。その研究は昨年、ドイツのマックスプランク生化学研究所に移った弟子が完成させました。

―永山さんは生理研にいらっしゃったころに、スマートフォンの前面カメラを活用した「スマホ顕微鏡」を開発され、科学コミュニケーションセンターではスマホ顕微鏡を活用して一般市民誰でもが科学に携われるような活動に取り組んでいらっしゃいます。

 NMRと電子顕微鏡の間にたんぱく質集積というエンジニアリングの世界の研究をやりました。それが科学コミュニケーションにつながり、スマホ顕微鏡につながった。研究の流れと科学コミュニケーションの流れがひとつに融合したのがスマホ顕微鏡なんですね。

研究者としての意欲、モチベーションをどう持続させるかと考えたとき、ひとつは学会で同僚の研究者と話をするといったピアレビューの世界ですね。けれども、うんと大きな発展は他から来ます。僕もそうですけれど、異分野や違う領域とかから。僕の経験では5年かかってもできないことは同じ枠組みの中にいてもできません。僕の場合自分から異分野へ飛んでいきます。科学コミュニケーションも同じですね。科学コミュニケーション活動は、研究者としてのモチベーション維持にも役立ってきました。

サイエンスは文化の一部、という感じが欧米にはあります。科学と文化は彼らにとって別物ではなく、西洋の歴史の中で自然に出てきた、自分たちの精神文化のひとつです。我々にとってはまだ借り物という感じが嫌で、科学的精神を日本に根付かせたいと思っています。そういう風に思うのは、科学が好きで科学を信じているからでしょう。科学に対する信頼性は揺るぎません。

(2015年1月14日にインタビュー実施)

(続く)

永山國昭 氏
(ながやま くにあき)
永山國昭 氏
(ながやま くにあき)

永山國昭(ながやま くにあき) 氏 プロフィール
総合研究大学院大学理事、自然科学研究機構生理学研究所名誉教授
東京大学理学系大学院博士課程満期退学(1974年理学博士)。東京大学理学部助手、日本電子(株)研究室長、東京大学教養学部教授、生理学研究所教授などを経て、2014年より現職。生物物理学、電子線構造生物学、生命の熱力学的基礎論が専門。1997年よりJSTの科学技術理解増進事業にかかわり、多くのプログラムの設立、運営に参加してきた。2000年以前、科学コミュニケーターはサイエンスレンジャーと呼ばれていた。私はその第1号ということらしい。最も記憶に残るのは、Science Windowとサイエンスアゴラの立ち上げと運営である。両者ともに息の長い事業として科学コミュニケーション文化の一翼を担ってほしい。

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