「多様性が育むもの」
地球には人間のほかに生物学の分類でいうヒト科に属する生きものがいる。チンパンジー、ゴリラ、オランウータンである。大型類人猿と呼ばれてきたが、サルではないため最近は「類人」と称するそうだ。近年のゲノム解析によると、チンパンジーと人間のDNA塩基配列は約1.23%の違いと分かった。京都大学霊長類研究所では文字や数の学習をするチンパンジーのアイを中心に「アイ・プロジェクト」が行われ、ヒトの進化の解明にも道を拓く。6月には、この10年間の研究成果をまとめた「人間とは何か」(岩波書店)が出版された。同研究所の松沢哲郎所長に取り組みと展望を伺った。
―チンパンジーの密猟や保護の問題にしても、海外や現地の人たちとのネットワークも重要ですね。
「霊長類研究における南北問題」という表現ができるんですけど、いわゆる「北」の先進国には日本を除いてサル類がいないけど研究者がたくさんいる。「南」の発展途上国にはサル類がいるけど研究者がきわめて少ない。それで北から情報発信されているわけです。動物福祉団体や環境NPOなどの情報発信は当然北(欧米や日本)からされています。そういう不均衡をカバーする上でも多くの研究リソースがないと。だからウエブサイトから関連した機関にリンクを張っています。
―アフリカ人の研究者を育てるのは難しいことですか。日本に1人2人留学くらいでは小さな点にすぎずどうしようもないでしょうか。
育てるのは大変難しい。しかし小さくても可能性を持っています。現にいまのボッソウ環境研究所の所長は京都大学に国費留学して大学院を出て、京大の理学博士になった人です。彼がいなかったら研究がかなり難しいと思うくらい大きな存在です。ですから1人の人材を育てること、1人の人材がそこにあるということには大きな意味があります。一人ひとりがそう大きく違うものではない。1人の頑張りでも世界は変わるんです。
―先生がお書きの「1ppmの思想」の中の「小さなものに目を配る、小さなものから考える」にとても感銘を受けました。
例えばアフリカ人の学生とケンブリッジ大学の学生を1人前の研究者に育て上げるのではやはり差があります。でも努力の範囲でカバーできることで、大した差ではないとも言えます。そういう意味では十分対応可能だけど、逆に導いていく側の教師、教えていく側の度量や力量の問題ではないでしょうか。十分できる方はなさればいいですし、無理であれば自分ができることをするというのは非常に理にかなっています。
―チンパンジーの寿命は50年と長いですし、長期的な視野で研究の後継者の人脈をつなげていかなければならないですね。国の支援のほかに企業についてはいかがですか。
後継者についてとてもうまくいっているのは、雑誌「科学」に連載の記事が100回もの長さになっていることに現れていると思います。僕なんかほとんどいなくてもいい感じがしますよ(笑い)。執筆者が50人を超えて、年々優秀な人が次々とわき出してくるような思いの方が強いですね。文章一つにしても、どうしてこんなにうまく書けるの、というような子が何人もいます。
これらの著者の何人かは、霊長類研究所の「比較認知発達」というベネッセコーポレーションの寄附研究部門にいます。今年の4月には林原(グループ)の寄附による「ボノボ(林原)研究部門」も新設されました。ボッソウで「緑の回廊」の調査研究に使っている四輪駆動車はトヨタ自動車に寄贈いただきました。こうした企業のご支援もありがたいですが、個々人の方からの「緑の回廊」へのご芳志もとてもありがたく思います。
―10年、20年後の夢、学生へのメッセージをお願いします。
夢というより、自分がどんな風になっているか、自分がどう振る舞っていくかは、ほぼはっきりと見えています。人々に期待されるような役割を果たしていき、その中でこれまでの研究を続けていくことです。次の世代にさまざまなことがしっかりと受け継がれていて何かお役に立てれば、もしたくさんの人々の付託があるとすれば、応えられるような生き方ができたらいいですね。
学生へのメッセージとしては、こういう能力があった方がいいとは少しも思いません。みんなそれぞれ違っているからいい、というのが生物学的な真理なので、そのままでいいんじゃないですか。もしずうっと立ち尽くしている子がいるとしたら、ポンと背中をたたいて「歩いた方がいいんじゃないの」と言いたくなりますね。言ってもどうにもならないと思ったら、チンパンジーと同じ教えない教育を見習うしかなくて、ポンと背中をたたいて自分が歩いてみせます。するとトボトボついてきますよ。
ただ放っておいても自分探しをする世代というのがあると思うんです。「臨界期」といいますが、そういう感受性の高い時期には相応のことをすればいいと思いますよ。そうしないといいものが生まれてきませんから。
―自分が意欲を持ったことにチャレンジしてみるということですか。
やはりその時、そういう自分というものを1歩引いてみるような視線も欲しいわけです。やや矛盾したメッセージを発しているのだけれど、「目の前のことを一生懸命に、じっくり取り組むのがいいと思います。同時に自分を冷静に見守るようなもう1つの目を持っているとさらに素晴らしいですね」という意味です。
「思いっきり駆け抜けていきなさい。いまこの時、この一瞬しかないのだから。でも自分の意思で立ち止まることができるよね」とも言えます。そんなに急いで駆け抜けていくなよ、と引き止めるものが心のうちにあってもいいと思うのです。
(SciencePortal特派員 成田 優美)
(完)
松沢哲郎(まつざわ てつろう) 氏のプロフィール
東京都立両国高校卒、1976年京都大学大学院文学研究科博士課程を中退、同年同大学霊長類研究所心理研究部門助手、93年同研究所教授(行動神経研究部門思考言語分野)、2006年から現職。理学博士。1978年創設された「アイ・プロジェクト」でチンパンジーの知性を研究、85年世界で初めてチンパンジーがアラビア数字による数の概念を表現できることを明らかにした。86年からギニア共和国のボッソウ村付近で野生チンパンジーの生態を継続的に調査、2000年からチンパンジーの世代間の文化伝達を研究、新しい研究領域である「比較認知科学」を開拓、07年チンパンジーの直観像の記憶能力を解明。日本学術会議会員、日本霊長類学会理事、日本動物心理学会理事、日本赤ちゃん学会副理事長、日本モンキーセンター理事ほか。1991年秩父宮記念学術賞、2001年ジェーン・グドール賞、04年紫綬褒章、中日文化賞、日本神経科学会時実利彦記念賞など受賞。著書は「おかあさんになったアイ・チンパンジーの親子と文化」(講談社)、「チンパンジーから見た世界」(東京大学出版会)、「人間とは何か:チンパンジー研究から見えてきたこと」(岩波書店)など多数。