インタビュー

第5回「経済物理学へ - 社会の動きへの挑戦」(坂東昌子 氏 / 愛知大学 名誉教授)

2009.08.14

坂東昌子 氏 / 愛知大学 名誉教授

「物理学の冒険 - 素粒子から社会物理学への思い」

坂東昌子 氏

いまや湯川秀樹博士と研究室をともにした素粒子物理学者は数少なくなった。そんな一人で、素粒子物理にとどまらず新しい研究分野への挑戦、さらには女性研究者の研究環境改善から、最近では若手物理学者のキャリアパス拡大支援など社会的活動にも力を注いでいる坂東昌子・愛知大学 名誉教授にこれまでの研究生活を振り返り寄稿していただいた。5回続きでお届けする。

交通流の研究の後、しばらく素粒子物理に戻っていたが、あの時作った模型の考え方はいろいろな現象に使えるのではないかという気持ちはずっとあった。生物の進化の話、社会現象での世論の動き、イノベーションの普及過程、いろいろなところで似た現象がある。考えてみれば、物理学が宇宙や生物などの対象にもかかわりだした歴史は、そんなに古いものではない。日本では、湯川秀樹先生が、物理学の対象を広げ、未知の分野を開拓する精神の象徴として、京都大学基礎物理学研究所が設立されたのだと思う。

だが、基礎となる経常研究費がどんどん少なくなり、競争的資金を獲得しないと、日常研究さえままならないのが現実だ。今の研究費配分の犠牲になって、目の前の短期的な研究成果と、研究費申請関係の書類の山をこなすのにあくせくと時間を使わねばならず、「なんでこんなに忙しいのかなあ」と悲鳴を上げている現状では、果たして、狭い研究対象に閉じなかった湯川精神は、生き続けていけるのだろうか。何かかなしい思いがする。

それはともかくとして、湯川先生は、人間の多体系の問題、社会科学は専門外として社会科学者に委ねられたように思える。ある意味では、湯川精神にも、ある種の限界があったのかもしれない。

一方、歴史を振り返ると、もっとスケールの大きな物理学者は存在していたようである。ちなみに、社会物理学という概念は、1835年に、ケトレによって提唱されているらしい。ケトレといえば、統計学の大御所であるが「社会物理学」という著書があるという(実は残念ながらこの本を見つけることはできないのだが)。

また、気象シミュレーションを、最初に試みたリチャードソンは、気象学が戦争の道具として使われることに反対してそれまで勤めていた気象台長を辞任したらしい。そして、国際紛争を科学の対象として定式化しようと試みたそうだ。また、リチャードソンは戦争の原因に関しても統計的な分析を行ったそうである。

社会現象をミクロな立場から扱った本がある。A Micro-Social Theoryである(注)。ここでは、経済的現象を取り扱うのだが、取り扱う量は、goods(生産物:G) Interest(持ち株:R)といった量を金額に換算してそれを解析するのである。ただ、この理論では、動きを決める原理がない。私たちの模型は、これに動的な考察ができるようになっているような気がしている。さらに、このGとしては例えば投票行動・世論の動きなどをとれば、経済活動だけでなく幅広い現象に応用できる。こうした仕組みを入れると、社会のマクロな集団運動が起こる現象が動的に分析できるような気がする。さらにいえば、われわれの模型は、個体の反応における「慣性力」を取り入れているので、人間の迷いみたいなものもうまく入ってくる。これから膨大な領域でこのような手法が有効ではないか、と夢は膨らむ。

最近始めた経済物理学の仕事は、その最初の試みである。これもひょんなことから始まった。きっかけは、文系に分かるテキストが欲しいということから始まっている。愛知大学で、微分も積分も知らない文系の学生に統計を教えるために、教科書を作ろうと呼びかけて、「統計グループ」を結成したのは4年前である。経営学部の齋藤毅さん、岩田さん、藤井さん、と非常勤講師をしていただいている物理屋の谷口正明さんと5人で意気投合して1年かけて作った。これが結構うまくできていて、学生たちがよく分かるという。

彼らはこれで統計の勉強を始めたのだから、統計はやさしい教科だと思っているのが面白い。私もこのテキストで教えてみて、254人の統計基礎のクラスで113人が90点以上を取った。試験がやさしすぎるのだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。まあ、こんな自慢話をしてもしようがないので、やめにして、このテキストのなかで、経営の藤井先生が、グラフの説明に、わが国の国民総生産(GDP)と景況指数の年変化のグラフを提示なさった。それを見ていて、「この2つどういう関係があるの?」と聞いたら、「いやあまり関係があるわけでもありません」と言われた。その後、谷口さんと「せっかく一緒にテキストも書いたのだし、何か仕事をやりたいね」という話になったのである。

あるとき、谷口さんが、「GDPそのものではなくGDPの年ごとの差&DeltGDPが景況指数と関係しているような気がする」と言ってグラフを見せてくれた。生産量は景況指数(DI)がよければ増産に転じるし、悪ければ抑えられる。何か、後先になって関係しているな、そうすると何か前の模型が使えるかもしれない。そういうことから調べてみようということになった。けっこう難しいところがあったが、多少見込みが出てきた。交通模型を一緒にやった中山さんが2007年度に琉球大学から名城大学に移られ、近くになったので相談に出かけた。中山さんは、スマートで、ものすごく理解力が深い。たのもしい仲間を見つけてこの仕事は加速した。そして、動的景気循環模型が完成したのである。

今度は、論文の投稿先をはっきり決めていた。物理学会のジャーナル「JPSJ」である。さらに、「経済現象に保存量があるか」という第2弾の論文も最近できあがった。

今では、経済現象に、物理法則がなぜ適用できるかについて多少の考えがまとまってきた。経済社会では、個性のある人間といえども、ルールにのっとって活動しないと経済社会から落ちこぼれるので、結局、運転免許を取るのと似た「経済免許をとる人間の多体系になっている」ということを認識したのである。だから経済も物理学の処方が使えるのだ。

20世紀は、個別科学、物質科学・生命科学・宇宙科学、工学や医学、の個々の進化の時代であった。21世紀になって、環境問題、安全問題、エネルギー問題、資源問題、といった生活に深く関係した問題が、さまざまな場面で大きな課題を抱えていることが明らかになってきた。生活臭のある女性もともに活躍すべき分野が広がっている。そして、個別科学をつなぐ広大な領域で、多くの課題がわれわれを待っている。

ただ、若者がこういう分野にすぐに飛び込めるかどうかは、ちょっと疑問だ。なぜなら、まずは個別科学の分野でしっかり鍛えることがなければ、そこから広がった分野に挑戦しても、鍛え方が足りなくて挫折する場合も多い。よく若者こそ、新しい分野の挑戦者だ、学問は若い時代にこそ創造性を発揮できるのだ、というような言い方で、若者を叱咤(しった)激励する人もあるが、ちょっと待ってほしい。まずは、専門分野でしっかり鍛えるべきである。そこで身に着けた基礎力と企画力、それに創造的な研究ができる国際的な場でのコミュニケーションの基礎を固めておくことが大切だ。大学院教育はそのためにこそ重要である。それに続くポストドクター制度がうまく働けば、さらに強靭(きょうじん)な精神としっかりした研究者としての資質を養う場となる。

現実には、必ずしもポストドクターが、このような理想的な環境で育っているとは思えない現実もままあるが、理想はこうでなければならない。そうすれば、自ずと自分の能力にも謙虚になり、たくさんの人から学ぶ姿勢もできる。そうして初めて、他分野にも目を広げ、たくさんの学生たちからも学び、さらに市民の声からも学べる本当のインテリになるのだと思う。真のインテリとは、どういうものか、整理もしないで言わせてもらうと、

  1. 既成の概念やうわさにとらわれず事実を直視する
  2. 権威や肩書にとらわれない発想ができる
  3. まねでない独創的で人を動かす発想がある
  4. 目先にとらわれず、先を読む気風がある
  5. 権力にも世論にもへつらわず意見がいえる
  6. 議論相手から指摘されたら異見を改める
  7. 論理や発展の段階をきちんととらえられる
  8. 客観的な事実と希望や主観を混同しない
  9. 議論は勝ち負けより、高い認識への糸口
  10. 科学的合理的志向をあくまで貫き通せる

長らくいろいろな人と付き合ってきた私の率直な感想である。裏返せば、科学者にも、まだまだ真のインテリとは言えない人もたくさんいるな、と思うこのごろだということかな?

年をとっても、いろいろな分野に挑戦してみて、新たな学問の新しい息吹を持ち込みたいもの、とまだまだの自分を励ますこのごろである。

  • (注) Gerald Marwell and Pamela Oliver :“The Critical Mass in collective Action- A Micro-Social Theory”, Cambridge University Press

(愛知大学 名誉教授 坂東 昌子)

(完)

坂東昌子 氏
(ばんどう まさこ)
坂東昌子 氏
(ばんどう まさこ)

坂東昌子 (ばんどう まさこ)氏のプロフィール
1960年京都大学理学部物理学科卒、65年京都大学理学研究科博士課程修了、京都大学理学研究科助手、87年愛知大学教養部教授、91年同教養部長、2001年同情報処理センター所長、08年愛知大学名誉教授。専門は、素粒子論、非線形物理(交通流理論・経済物理学)。研究と子育てを両立させるため、博士課程の時に自宅を開放し、女子大学院生仲間らと共同保育をはじめ、1年後、京都大学に保育所設立を実現させた。研究者、父母、保育者が勉強しながらよりよい保育所を作り上げる実践活動で、京都大学保育所は全国の保育理論のリーダー的存在になる。その後も「女性研究者のリーダーシップ研究会」や「女性研究者の会:京都」の代表を務めるなど、女性研究者の積極的な社会貢献を目指す活動を続けている。02年日本物理学会理事男女共同参画推進委員会委員長(初代)、03年「男女共同参画学協会連絡会」(自然科学系の32学協会から成る)委員長、06年日本物理学会長などを務め、会長の任期終了後も引き続き日本物理学会キャリア支援センター長に。09年3月若手研究者支援NPO法人「知的人材ネットワークあいんしゅたいん」を設立、理事長に就任。「4次元を越える物理と素粒子」(坂東昌子・中野博明 共立出版)、「理系の女の生き方ガイド」(坂東昌子・宇野賀津子 講談社ブルーバックス)、「女の一生シリーズ-現代『科学は女性の未来を開く』」(執筆分担、岩波書店)、「大学再生の条件『多人数講義でのコミュニケーションの試み』」(大月書店)、「性差の科学」(ドメス出版)など著書多数。

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