「物理学の冒険 - 素粒子から社会物理学への思い」

いまや湯川秀樹博士と研究室をともにした素粒子物理学者は数少なくなった。そんな一人で、素粒子物理にとどまらず新しい研究分野への挑戦、さらには女性研究者の研究環境改善から、最近では若手物理学者のキャリアパス拡大支援など社会的活動にも力を注いでいる坂東昌子・愛知大学 名誉教授にこれまでの研究生活を振り返り寄稿していただいた。5回続きでお届けする。
新しい分野への挑戦はすべてが順調に進んだわけではない。特にせっかく投稿した最初の論文は数奇な運命をたどることとなる。
最初は、いったいどこに論文を出すべきかいろいろな可能性を考えた。最初に評価してくださったのは、山口昌哉先生だ。応用数理学会のジャーナルに出すのが最も確実だろう。こうして、第2論文は、新加入の応用数理学会のジャーナル(JJIAM: Japan Journal of Industrial and Applied Mathematics)に投稿し、掲載される運びとなった。
私たちは論文を書いてから、交通問題に関係するような話が出たら、チャンスを逃がさずできるだけ情報を得るよう努力した。また交通流関係の研究者を知っている人がいたら必ず紹介してもらうようにした。トヨタ自動車研究所の方をご紹介願ったこともある。「私はそれほどこの分野について専門家ではありませんが、ざっと読んだ感想では1レーン問題は1960年代に一応片がついています。その後の研究は多数のレーンのある場合、信号のある場合など複雑な系に移っているので、『古い問題』と思われる可能性があります」と言われた。
考えてみれば、最初に見つけた論文が載っていた「Operation Research」(OR)には、不思議なことに交通流の論文は1950年代後半から60年代たくさん見つかるのに、1867年以降は皆無である。これは、第1論文のreferenceをみて教養部の浅野俊夫先生や京大物理の九後さんにもすぐ言われたことであった。「これ以降何も調べられていないとは思えない」。研究者として当然抱く疑問である。やっぱりORに挑戦して確かめてみよう、古い問題でも新しい考え方を提案しているのだから、認められるかも知れない。すでに重要な貢献があれば素直に勉強し直すし、レフリーからコメントがあれば再考しよう。そうでないと、新しい分野に進出できない。新米のしかも日本からの論文だ。レフェリーが常に的確に判断してくれるとは限らない。でも、ともかく正攻法でいってみよう。
しかし第1論文は日の目を見るまでに実に1年もの時間を要した。OR編集者の一人プリンストン大学のパウエル教授あてに投稿したのは、1993年の1月のことだ。ところが3月になっても「論文を受け取った」という返事さえこない。少なくとも物理の世界では、論文のレシートカードがすぐに来るはずである。仕方なく手紙を書いた。1993年3月である。
論文を送って2カ月にもなるのに受領の知らせすらない。「届いているかどうか不安だ。eメールのアドレスを教えてくれないか」という問い合わせに対し、パウエル教授からeメールで5月18日に返事が来た。
「秘書が病気したので返事が遅くなったため、処理が遅くなった」ということだった。
論文受領の返事も書けなかったのかなとは思ったが、ともかくすぐに返事が来たのだ。待つしかない。しかし、これからが大変だった。何度eメールで催促してもいつも返事はまだの一点張りである。7月21日になってもう一度催促のメールを出した。
これに対しては、「レフリーからの返事では、このテーマは、ORの雑誌の範囲ではない。むしろTransportation Scienceが適当だろう。で、お望みならそちらのエディターもやっているのでフォワードしましょうか?」というものだった。
「何ということだ! 半年もたって『この雑誌はふさわしくないから他の雑誌に投稿しろ』だって。そんなことなら一目見て分かるはずじゃない!」。 私がコンピュータの前でぶつぶつ言っていたら、隣にいた英国人の研究員マークが、「これなら親切な方ですよ。怒らしたら通らないから丁重にお願いする方がいいですよ。僕が返事を書いてあげましょうか」と言ってくれたので、思い直して彼に頼んだ。
向こうは、いつもに比べて今度はうまい英語だと思ったに違いない。 さて返事。
「それではあなたの論文をTransportation Scienceにフォワードしておきます。ご存知かも知れませんが、この分野には、元物理屋さんで指導的役割を果たしている研究者がいますよ。ゴードン・ニューウェル(カリフォルニア大学バークリー校)とか、ボブ・ハーマン(テキサス大学オースティン校)です」と励ましているようにも見えた。
悪い人ではないのかな。思い直してよかったかな、とその時は思った。そして…。
論文転送の労をとっていただくお礼のメールを出し、それに対する返事ももらい、そしてまた2カ月たった。
今度はTransportation Scienceの編集者、ダスキン教授にeメールを出した。そして驚いたことに「そんな論文はわれわれは受け取っていない」という返事が来たのである。私はさすがに腹が立ったので、今度はマークに相談もしないでその場で即座にeメールをパウエル教授に出した。
「Transportation ScienceのProf.Daskinから論文など受け取っていないというeメールが来た。こんな扱いを受けるのは残念だ。すぐに返事してほしい」
これを見ていたマークは「怒らすのは損だ。もう出したのか?」と相変わらず低姿勢を忠告する。もう怒らしても仕方ないのではないか。私はeメールの“send”のボタンを押してしまったのである。返事などくれないかも知れない、と思っていたが、パウエル教授は「悪かった。秘書に頼んだのにトラブルがあって」。またまた秘書のせいにした。しかし「コピーが1つ残っているから必ずフォワードする」と約束してくれた。
今度は、すぐに対応してくれ、ダスキン氏から「受け取った」という返事が来た。こうしてやっと9月の終わりになってこの論文は正常なルートに乗った。ちょっと考えられないが、こんなこともあるのだな。
ここからは、普通の対応で、レシートカードが来て、2カ月後レフリーのレポートが届いた。答は「このままでは駄目だ」というものであった。「この分野での30年間の発展について全然リファーしていない」。膨大な量の回答で、「今までの模型でうまくいっている」という宣伝や、これまでの努力をどう思っているのかといった多少アンフェアなところもある。
この回答を非線形物理で活発にやっておられる早川尚男さん(現 京都大学基礎物理学研究所)がみて、「これは通らないよ。かなり抵抗があると思う」と言われた。前後するが、統計数理研究所でセミナーのあとの食事のとき、この話が出たら、「こういうのならPhysical Review E がいいですよ。Eは最近できた分野でnon-linear dynamics 全体をカバーしていますから」と伊庭さんが教えて下さった。これは、われわれの第1論文だから、どこかに公表したい。こうして投稿した第1論文は、1年遅れたが、ともかく雑誌(Physical Review E)に掲載された。物理学分野から抜け出せなかったことは今でも悔いが残っている。
(愛知大学 名誉教授 坂東 昌子)
(続く)

(ばんどう まさこ)
坂東昌子 (ばんどう まさこ)氏のプロフィール
1960年京都大学理学部物理学科卒、65年京都大学理学研究科博士課程修了、京都大学理学研究科助手、87年愛知大学教養部教授、91年同教養部長、2001年同情報処理センター所長、08年愛知大学名誉教授。専門は、素粒子論、非線形物理(交通流理論・経済物理学)。研究と子育てを両立させるため、博士課程の時に自宅を開放し、女子大学院生仲間らと共同保育をはじめ、1年後、京都大学に保育所設立を実現させた。研究者、父母、保育者が勉強しながらよりよい保育所を作り上げる実践活動で、京都大学保育所は全国の保育理論のリーダー的存在になる。その後も「女性研究者のリーダーシップ研究会」や「女性研究者の会:京都」の代表を務めるなど、女性研究者の積極的な社会貢献を目指す活動を続けている。02年日本物理学会理事男女共同参画推進委員会委員長(初代)、03年「男女共同参画学協会連絡会」(自然科学系の32学協会から成る)委員長、06年日本物理学会長などを務め、会長の任期終了後も引き続き日本物理学会キャリア支援センター長に。09年3月若手研究者支援NPO法人「知的人材ネットワークあいんしゅたいん」を設立、理事長に就任。「4次元を越える物理と素粒子」(坂東昌子・中野博明 共立出版)、「理系の女の生き方ガイド」(坂東昌子・宇野賀津子 講談社ブルーバックス)、「女の一生シリーズ-現代『科学は女性の未来を開く』」(執筆分担、岩波書店)、「大学再生の条件『多人数講義でのコミュニケーションの試み』」(大月書店)、「性差の科学」(ドメス出版)など著書多数。