インタビュー

第6回「日本にふさわしい精神文化を」(阿部博之 氏 / 前・総合科学技術会議 議員、元 東北大学 総長)

2009.06.29

阿部博之 氏 / 前・総合科学技術会議 議員、元 東北大学 総長

「知のエートス - 新しい科学技術文明創るために」

阿部博之 氏
阿部博之 氏

科学技術が日本の将来の鍵を握るということは、よく言われてきた。しかし、日本の高等教育はこれでよいのか。大学のあり方は今のままでよいのか。これまでこのような議論はきちんとなされてきたのだろうか。2007年1月まで総合科学技術会議議員として、今の第3期科学技術基本計画を策定する上で中心的役割を果たされた阿部博之・元東北大学総長が、議員退任後に科学技術のあり方を根本から問い直す目的の研究会を主宰している。その最初の活動成果とも言える本「科学技術と知の精神文化-新しい科学技術文明の構築に向けて」(丸善)が出版されたのを機に、阿部氏が21世紀の日本人に必要だとする精神的基盤「知のエートス」とは何か、をうかがった。

―大学の研究費配分における多様性の確保と重複するところもあると思いますが、地域の疲弊に対しても心配されていますね。何かよい対策はあるでしょうか。

大正の中ごろまで高等工業学校や高等師範学校などの専門学校を別にすると旧制の高等学校は、東京の一高、仙台の二高、京都の三高、金沢の四高、熊本の五高などいわゆるナンバースクールしかなかったのです。当時、東京大学、京都大学、東北大学といった帝国大学ができていきましたが、帝国大学の定員と、高等学校の定員の差が少なかったのです。皆が殺到するようなところでなければ東京大学だって無試験に近かったのです。

逆に高等学校に入るのがあまりに難しく、受験に失敗して自殺までしたなどという話もありました。それで大正9(1920)年に静岡高校や水戸高校など、県名や県庁所在地の名がついた高等学校がたくさんつくられたのです。それでもまだ高校に入ってしまえば大学にはいるのは難しくなかったために、高校時代に哲学などを学んだり、その他、何を学ぶかといったことでそれぞれ独自の学風、文化というものが、それぞれの高校にはあったのです。

これが日本のためにすごくよかったと思います。東京に出て来れば田舎もんだといわれるかもしれないけれど、そこに異文化の出合いというものができ、切磋琢磨(せっさたくま)も起きてくるわけです。日本のような狭い国でもそういうのがあった方がよいのに、今、それが非常に希薄になってしまっていますね。

昨年、科学技術振興機構が、地域大学サミットというものを開きました。そこで高知工科大学の学長が言った言葉があります。「日本中の受験生の過半数が東京に来たいと考えており、これはゆゆしきことである」と。高校受験についても同じで、確かに宮城県なども高校生が仙台の受験校に集中している現象があります。宮城県内には古川高校、白石高校、石巻高校など優れた高校が拠点ごとに幾つもあったのです。かつてはそうした高校から飛び抜けた秀才が東北大学に入ってきたものですが、みんな仙台の高校に進学してしまうので、今そうした仙台以外の高校からは、東北大学などに以前のようには入れなくなってしまっています。これは、非常によくないことです。県の中でもそうした一種の画一化が進んでいるということです。

せっかく日本は、各藩が学問を推奨したことで、江戸時代には最も多様性があり、明治、大正、さらに昭和でも戦前まではその伝統はあったのですが…。

―画一性にかかわることで言えば、受験のあり方にも警鐘を鳴らされていますね。

日本は入学試験で結果の公平性だけを非常に重視します。例えば答えのあいまいな問題を出したりするとたたかれます。明快な答えを要求することになり、その結果として問題が全部コンピュータ向けになるわけですよ。コンピュータで人間の能力をはかるというのは、フランスなどでは全くやっていません。バカロレアという大学入試センター試験のようなものはありますが、全部論述式です。論述式でないと独創性が出て来ませんから。それから、エリート大学はほとんど面接があり、しつこく聞かれます。たまたまマークシートで偶然当たるというのはないんですよ。「こうだ」と答えると、「なぜそうなるか」と即座に聞かれます(笑い)。

英国でも、人と同じ答えをする人を嫌いますね。それが独創性の風土になっているわけです。日本は、人と違うことを答えるとバツです。これも非常に問題なんです。

丸山真男(注1)が、ある本で次のようなことを言っています。「情報」というのは、「イエス、ノーで答えられるもの」と定義しているのです。

―情報を研究している人たちに異論がありそうですが。

ええ。情報学者によっては別のことを言う人もいるでしょう。丸山真男は、知の構造は4段階あると言っており、イエス、ノーで答えられる「情報」を第一段階として、第四段階に挙げているのは「叡智」なんです。要するに、知識のもつ意味とか、背景、考え方というのを重視するわけです。イエス、ノーだけが重要ではないのに、日本の教育はイエス、ノーばかりを重視しているというのです。イエス、ノーだけでは、丸山真男がいうように、確かにクイズには強い人間はできるでしょうけれど(笑い)。

これも、一種の結果の公平性だけを追求したがる姿勢の現れでしょう。マスコミだけじゃなくて、学者にも結果の公平性ばかり追求する人が多いんです。それで、現在のような入試の傾向がどんどん加速されてきています。私はあそこからはクリエーティブな文化は非常に出にくいと思います。

ランドコーポレーションという米国のシンクタンクがあります。そこがこれからの最も強いテクノロジーがどこの国から生まれるかを分析したことがあります。日本は非常にいろんな条件が整っている方だが、教育だけは駄目だというのです。日本人がクリエーティブでないとは言っていないのです。クリエーティビティーを引き出す教育をしていないのが、将来の強いテクノロジーにとって日本の数少ない弱点だと言っているのです。

―また「科学技術と知の精神文化-新しい科学技術文明の構築に向けて」に戻ります。小泉八雲(注2)に触れておられる個所がありますが、八雲は日本の教育を批判していたのですか。

それはちょっと違います。八雲は島根県の子どもたちに感心しているのです。八雲が日本に来たのは明治時代の中ごろで、まず島根県松江の旧制中学と師範学校の先生になります。明治になってしばらくたっているのに江戸時代からの人間教育というのが徹底していたわけです。八雲が非常に感心していたのが、子どもたちが大人だということです。まず礼儀作法がきちんとしていること、さらに「こういうことを隣村のだれそれに報告に行きなさい」と指示すると、12、3歳でもきちんと説明ができることに驚いているのです。日本の子どもたちは、宗教的、哲学的、倫理的にみてもすごい、と。

ところが、ヨーロッパ文明が入ってきますと、欧州の学問や科学を勉強することが子供たちの最大のミッションになります。明治政府というのは徳川幕府を倒して成り立ったので、徳川時代がいいとは言わないわけですよ(笑い)。国策としてヨーロッパ流の勉学をどんどん入れるわけです。そのために、ヨーロッパ人じゃかなわないような日本人の子どもたちが持っている学識とか哲学とか倫理観とか、さらに物をしゃべらせれば、実に堂々と説明できる。こうした八雲がびっくりした日本人の子どもの優れた面も、江戸時代を否定する空気のために、それがだんだん軽視されていったのです。それより西欧流の学問を勉強したほうがいいと(笑い)。

―日本人の弱点とか限界ではなく、文明開化についての指摘だったのですね。

ええ、初等教育はいいのに、高等教育を目指すようになると子供はだんだん駄目になってくる。せっかく古い伝統的な文化できちんとトレーニングされた子供たちを、ヨーロッパの学術文化を習うことばかりに一生懸命にさせて本当にいいんだろうか。すぐれたところをどんどん駄目にしてしまうのではないか、と八雲は心配したのです。

日本は、明治維新、第二次大戦後の改革の二度にわたって、それまでの精神文化を軽視または否定しました。もちろん一定の意義はありました。しかし、先人が生み出した叡智の中には、掛け替えのないものも当然あるわけで、それらを含めてすべてを軽視または否定してしまったことは、やむを得なかったとはいえ、残念なことです。外国人の方が客観的に観察できるのかもしれません。

時代の変革期をどう乗り越えていくかは、日本人に限らず難しい課題です。

  • (注1) 丸山真男:914-1996。政治思想史を専門とし、東京大学法学部教授として多くの政治学者、政治思想史家を育て、学界に大きな影響を与えただけでなく、「日本政治思想史研究」や「日本の思想」などの著書を通じ、ジャーナリストなど学者以外の多くの人々にも大きな影響を与えた。
  • (注2) 小泉八雲:1850-1904。アイルランド人の父とギリシャ人の母との間にギリシャで生まれる。旧名ラフカディオ・ハーン。米国で新聞記者などをした後、1990年来日、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師として松江に赴任、日本人女性と結婚、帰化し小泉八雲を名乗る。その後、東京帝国大学や早稲田大学の講師も務める。「知られざる日本の面影」「霊の日本にて」などの著書があるが、一般には「雪女」や「耳なし芳一の話」などを収めた「怪談」で知られる。

(完)

阿部博之 氏
(あべ ひろゆき)
阿部博之 氏
(あべ ひろゆき)

阿部博之(あべ ひろゆき) 氏のプロフィール
1936年生まれ、59年東北大学工学部卒業、日本電気株式会社入社(62年まで)、67年東北大学大学院工学研究科機械工学専攻博士課程修了、工学博士。77年東北大学工学部教授、93年東北大学工学部長・工学研究科長、96年東北大学総長、2002年東北大学名誉教授、03年1月-07年1月、総合科学技術会議議員。02年には知的財産戦略会議の座長を務め「知的財産戦略大綱」をまとめる。現在、科学技術振興機構顧問。専門は機械工学、材料力学、固体力学。

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