「政策決定の科学的根拠に -コホート研究の役割」
景気停滞に加え、世界的な金融システムの混乱が輪をかけ、財政もますます厳しさを増しつつある。政策の優先度をつけ、国民の多くが納得する行政を展開するためには、公費を投入する明確な根拠を示すことが、これまで以上に求められている。それを可能にするデータを提供するコホート研究に対する関心が世界的に高まっている。日本ではまだ耳慣れないコホート研究とは何か、安梅勅江・筑波大学大学院教授に聞いた。
―日本で子どもを対象にしたコホート研究が始められたころのことをお話ください。
25年前に私が家庭養育環境の評価法をつくったころは、限られた範囲のものしかありませんでした。家庭養育環境の評価法は1974年米国で開発されました。大学院生の時にこれを開発した米国の先生のところへ勉強に行き、「日本版をつくりたい」と言ったら、「どの文化にも共通する重要な家庭養育環境の要素を踏まえつつ文化による違いを加えて、妥当性を検証しながら自由につくりなさい」と言われました。
まずは原本を訳したものをつくったのですが、日本に合わないところがどうしてもいくつかありました。例えば、米国では毎日お父さんが子どもの世話をしないと、子どもに対するかかわりが乏しいと評価されます。当時、日本の家庭ではお父さんたちはほとんど夜遅くまで働き、土日もあまり子どもにはかかわれないという状況でしたので、日本の家庭にはこの米国の基準をあてはめることはできません(笑い)。
さらに育児法の違いもあります。米国は自立を促すことを小さいときから言葉で伝えます。「しっかりしなさい」と、0歳の子どもにはっきりと言葉で話しかけるようなところがあります。これに対し日本の場合は、にっこり見つめ合って「いい子ねえ」などと目で伝えるところがあります。言葉で表現しないと駄目、という米国の基準は日本に合うよう直しました。
マニュアルができたのは15年前ですから、10年かかりました。妥当性を検証するため、その子たちが大きくなってどの程度、発達上の課題や気になる行動が出てくるかを見たためです。このマニュアルは、あちこちで利用してもらっています。昨年から子どもの虐待予防に向けて、生まれてから4カ月までに全員、保健師が家庭訪問することになっていますが、そこでも使っています。マタニティブルーという出産後にうつ状態になる母親もいます。専門家が訪問してお子さんと親御さんの様子を見たり、「何か心配なことありませんか」と尋ねることで、早めにサポートの必要な親子を見つけて虐待を予防しようという目的です。家庭養育環境を客観的に評価し、その情報を皆で共有するためには、評価の指標というのはとても大事なものなのです。
―日本版の家庭養育環境評価法に基づくコホート研究で、どのようなことが分かってきましたか。
今10年間追いかけてきている「保育コホート」プロジェクトで、米国や欧州の研究同様、「家庭のかかわりの質」と「サポート」が大切という結果が出ています。日本の研究では、特に親が自信を持って育児をすることが大事という傾向が出ています。「小さい子どもを保育園に預けるとは何事か」という考え方が、日本にはまだまだ根強いのです。保育園のスタッフでさえ「私たちに預けるくらいなら親が早く帰宅して面倒見たら」といった考えの人がいたりするくらいでしたから(笑い)。親が親類からいろいろ言われたり、職場でも肯定的な目で見られないことで自信を失い、それがストレスになり、子どもに好ましくない影響を与える可能性がある。親が自信を持ってしっかり子どもとかかわることが大事、と研究で示したことで、こうした好ましくない影響を与える可能性についての証明になりました。
問題は保育園に預けるか否かではなく、親が自信を持ってしっかり子どもと向き合って育児をすることが、子どもの健やかな育ちに影響する。その根拠を示したことによって、職場も保育園も意識が変わり、親も自信を持たなければという気持ちになりました。保育園に預けるのはよくない、と考えて自分の「子育て力」に自信を失うのではなく、帰宅した後、自信を持ってしっかり子どもにかかわることが、子どもにいい影響を及ぼすのだから大丈夫、と前向きに子育てに取り組むことができる根拠となったのです。長時間保育を含む研究成果は世界的にも珍しいので、この結果はユネスコの2007年のレポートにも取り上げられました。
また「子育てハッピーアドバイス」(1万年堂出版)という数百万部も売れた漫画があります。その中にもこの成果が取り入れられて、親に対する影響力は大きかったですね。「保育コホート」研究は10年目になりますが、5年が終わったところで共同通信の記者の取材を受けました。その記事を「子育てハッピーアドバイス」の著者が取り上げてくれたのです。
(続く)
安梅勅江(あんめ ときえ)氏のプロフィール
1984年東京大学医学部保健学科卒、1989年東京大学医学系研究科大学院博士課程修了、1989年厚生省国立リハビリテーション研究所1992年米国社会サービス研究所客員研究員、95年東京大学医学部講師併任 1999年イリノイ大学客員研究員、2001年浜松医科大学教授、06年から現職、ヨンショピング大学客員教授も。専門は発達保健学。保健学博士。国際保健福祉学会理事、日本保健福祉学会理事。
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