インタビュー

第2回「対GDP比で先進国最低の医療費」(井村裕夫 氏 / 先端医療振興財団理事長、元京都大学総長)

2008.07.07

井村裕夫 氏 / 先端医療振興財団理事長、元京都大学総長

「医療崩壊防ぐ抜本的対策を」

井村裕夫 氏
井村裕夫 氏

厚生労働省が医師不足を認め、中長期的に医師を増やす方針を打ち出したことが反響を呼んでいる。他方、医療事故に対する医療機関や医師個人に対する法的責任を追及する事例が相次ぎ、現場の医療者の萎縮的、防御的な対応を引き起こす事態が進行している。産科や外科といった訴訟リスクの高い診療科への医師志望者の減少や、出産を扱っていた産科病院が婦人科のみに転向するといったリスク回避の現象だ。このままでは「医療崩壊」は避けられないと早くから警鐘を鳴らしている井村裕夫・先端医療振興財団理事長・元京都大学総長に現状の深刻さと、必要な対策について聞いた。

  • 注)大野病院事件
    福島県立大野病院産婦人科で2004年12月、帝王切開手術を受けた女性が出血多量で死亡し、執刀した同院産婦人科医師が業務上過失致死と医師法21条違反=異状死の届け出義務=に問われた事件。07年1月の福島地裁の初公判で被告の医師は胎盤が子宮に癒着していることの予見可能性や、大量出血に対する注意義務違反、異状死の届け出義務などについて全面否認し、無罪を主張した。08年3月、検察は「産婦人科医として基礎的な注意義務を怠った執刀医の責任は極めて重い」として、禁固1年、罰金10万円を求刑した。5月の最終弁論で弁護側は「医療行為に過失はなく、現在の医療水準に照らして妥当」としてあらためて全面無罪を主張している。判決は8月20日の予定

―医師不足の原因は厚生労働省の医療費抑制策にあるということですが、日本だけが特別に医療費が少ないという事実はあるのでしょうか。

診療報酬の抑制策がずっととられてきた結果、医療費は対GDP(国内総生産)比で先進国最低のレベルになっています。他の先進国と比べると、米国が断トツでGDPの15~16%です。もっとも米国も医療費が高いということでは困ってはいるのですが。しかし、欧州を見てもドイツ、フランス、オランダといったほとんどの国の医療費は、対GDP比で9-10%となっています。低い英国でも7.5%くらいです。これに対し、日本は7.2%、先進国では最低なのです。かつて英国は日本より下だったのですが、ブレア首相の時代になって日本の上になりました。今の政策を続けると、日本の医療は残念ながら崩壊して行くと私は心配しています。

こうした状態にさらに輪をかけたのが、福島県立大野病院の医療事故(注)を刑事事件にしたことです。医療のことが分からない警察、検察の判断で産婦人科医師を業務上過失致死に問うたわけですが、有罪になればその医師の一生は破滅です。医療には一定の割合で事故が伴うのは避けられません。百パーセント安全にしろというのは、そもそもできない世界なのです。医師が悪い場合、責めを問われるのはやむを得ないとして、その場合でもよほどのことでない限り民事で処理されるべきです。そうした場合を想定して、医師は保険に入っているわけですから。それを刑事事件にされるとなると、危ないことはやらない、お産もやらないとなってしまい、ついには産科医のなり手もないという事態を招いてしまうわけです。

産科に関しては世の中の風潮がおかしくなっていることが、問題をより難しくしています。妊娠しても病院にかからない女性が増えているのです。体調が変化してからあわてて病院に駆け込むという患者に対し、医師は処置に困ります。最初から診ていない母子手帳も持たない患者に対しては、細かいところまで分かりません。しかも、そうした患者の中には治療代を払わない人がいるのです。産科に限ったことではありませんが、特に救急患者にも治療費を払わない人が増えており、どの病院も未収金を抱え困っています。裁判を起こしてもさらに費用がかかるだけですから。

お金に困っていないのに学校の給食費を払わない親がいることが問題になっていますね。何でもかんでも国が負担するのが当然だ、という昨今の風潮が医療崩壊の根底にもあるように思えます。結局、現代日本人の心の問題というものに行き着いてしまう面もありますね。

―医療の崩壊を防ごうとすれば、相当思い切った対策が必要ということでしょうか。

日本人には国に対して過剰なサービスを求める傾向があり、医療に対しても同様ではないか、という意見があります。例えば米国人に聞くと、1時間くらい車で飛ばさないと病院がない所など米国にはいくらでもある、というのですね。日本中すべて、すぐ近くに病院があり、専門の医師がそろっているような状態まで望み得るのかという問題はたしかにあります。しかし、いずれにしろ、今の医療費では医療の崩壊を防ぐのは難しいことははっきりしています。

比較的に恵まれていたといわれてきた開業医も、いまや収入が減っています。さらに病院は開業医と異なり、元々恵まれてはいないのです。高度な医療では最初から赤字になるような診療報酬しか認められていないからです。大部分の病院は国公立だから赤字の分は国や自治体が出せばよい、という考え方でずっと来たのです。しかし、今や国にも自治体にもお金はありません。赤字を埋めることができなくなっているのです。

基本的な問題は、医師数の不足と最初から赤字になるような診療報酬しか認めていないことにあります。

臨床研究体制の強化、新薬の審査期間の短縮といった面については、われわれの活動を自民党ライフサイエンス議員連盟が理解してくれたことなどもあり、前進はあります。審査機関である医薬品医療機器総合機構の審査員の数も、3割増が認められたと聞いています。前々から提言していたのですが、「3年程度で審査員の数を倍増」という目標に向かって、定員増が実現したのには大きな意味があります。 

医薬品医療機器総合機構の理事長に医療の現場を知っている医師が就任したのもよいことです。審査員は単に増えればよいのではなく、企業で薬の開発をした人、大学の研究者など現場経験のある人が審査員にならないと実効は上がりませんから、トップにもこれまでのような官僚OBではなく、経験のある有識者が望ましいのです。

さらに日本の医療の現状を変えるにはより抜本的な対策が必要で、それにはもっと医療費を増やし、医師の数を増やすことが肝心です。

日本のGDPはおおよそ500兆円ですから、その1%、5兆円でも増やせば日本の医療はものすごくよくなります。0.5%増えただけでもだいぶよくなります。

(完)

井村裕夫 氏
(いむら ひろお)
井村裕夫 氏
(いむら ひろお)

井村裕夫(いむら ひろお)氏のプロフィール
1954年京都大学医学部医学科卒業、62年京都大学大学院医学研究科博士課程修了、京都大学医学部附属病院助手、65年京都大学医学部講師、71年神戸大学医学部教授、77年京都大学医学部教授、89年京都大学医学部長、91年京都大学総長、97年京都大学名誉教授、98年神戸市立中央市民病院長、科学技術会議議員、2001年総合科学技術会議議員、2004年から現職。稲盛財団会長、研究開発戦略センター首席フェローも。日本学士院会員、アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員 専門領域は内分泌学。

ページトップへ