インタビュー

第4回「脳活動の最も高度な部分とは」(伊藤正男 氏 / 理化学研究所 脳科学総合研究センター 特別顧問)

2008.02.18

伊藤正男 氏 / 理化学研究所 脳科学総合研究センター 特別顧問

「社会の期待集める脳研究」

伊藤正男 氏
伊藤正男 氏

脳は研究対象としてもっとも難敵であり、それだけに研究者にとっては魅力にあふれた領域でもある。研究者だけではない。難病あるいは高齢社会に伴って増えている痴呆症などの治療や、より高度なコンピュータやロボット開発に向けてのブレークスルーにつながる成果を期待し、先進各国がもっとも力を入れている研究分野となっている。さらに最近は、最適な教育法を求める観点から脳の研究が大きな関心を集めている。日本の脳科学の先駆者で、いまでも指導的な役割を担う伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問に教育にかかわる面を中心に脳科学の現状を聞いた。

―無意識で行われていることが、脳の働きの重要な部分を占めていそうだ、となりますと、その仕組みを脳科学的に解明することはこれまた大変なことのように思えますが。

フロイトは心を3つの成分に分けています。「イド」というのが一番下にあり、本能的で快楽追求的な部分。その上に「自我」があり、社会性を重んじて周りと調和して生きよう、と考えるところです。さらにその上の「超自我」になると宗教や倫理などさらに高い規範で行動を律する部分というわけです。イドというのは、本来は原語のドイツ語ではエス(Es)、つまり英語のイット(It)に相当する語です。ところが英語に翻訳した人がItではつまらんからということで「id」にしたら、それが有名になってしまったというわけです(笑い)。

「人間の精神構造は、喜びを求めて無意識の中でかっとうをくりかえしている」というのが、心を「イド」「自我」「超自我」の3つから成るとしたフロイトの説です。しかし、イドとは違う無意識の働きもあります。

サブリミナルパーセプションというのがありますね。法律で禁じられていますが、一時大騒ぎになりました。例えば飲み物のイメージをテレビ映像の中に挿入しておくと、実際の画像は視聴者の目には見えないのに飲みたくなってしまう効果があるというものです。飲みたいと思ったから、自分の意思で飲んだ。当の人間はそう思い込んでいるわけです。しかし、かくのごとく無意識の世界というものが実は大きいということが、実際に認められるようになっているということです。

自分で思ったように指を曲げて下さいといわれて、指を曲げさせる実験があります。このとき、同時に大脳準備電位という脳の電気変化をみてみますと、時間的にだいぶずれがあることが分かりました。被験者には目の前に時計を置いて、針がどこに来たときに指を曲げようと思ったか、答えてもらいます。そうすると被験者が答えた時刻より1秒くらい前に、電気変化つまり指を曲げろという指示に対応するシグナルが測定されるのです。無意識のうちに指を動かす何か仕掛けが働いているようです。

われわれは自分の意思でやったと思っているが、それはうそではないのか。脳が無意識のうちに始めたことなのに、われわれは後から自分の意思でしたことと思いこんでいるだけではないのか、ということになり、今、それが大問題になっています。では、一体、何が指を動かそうとしたのか。意思というのがそのようなものだとしたら、例えば犯罪行為に対してはどうか。殺意があったかどうか明確に断定できないといったことになりかねない、というようなすさまじい議論になります(笑い)。

―そういえば、犯罪などには無縁と思われるような人に実は盗癖がある、といった話を聞いたことがあります。これなども盗みたいという本人の意思は必ずしも確たるものでないのに手が出てしまうということで、あるいは説明できるのでしょうか。

脳は、左側が論理的な働きをしており、右側は直感的だといわれてきました。「頭がいい」などと言う評価も、論理的な思考が得意なことを指していたように思えます。このように話をしているときも働いているのは左脳で、一見、右脳はばかのように見えるわけです。右脳は左脳にただ乗りして眠っているようだ、と。しかし、本当は右脳の方が大事で、大局的な判断のようなレベルの高いことをやっているのではないか。しかも、コンピューターにはできない人間らしいことをしている。そう思われるわけですね。

アインシュタインが、大発見をしたときに、非言語的な漠然としたイメージをもてあそんでいるうちに突如考えがひらめいた。あるいは、ポアンカレが馬車のステップに足をかけたとき突然、今まで考えあぐねていた難しい数式がパッとひらめいたというのも、無意識の脳の働きがあったことを示しています。

人間の脳の働きというのは、意識的なものが通常、重んじられてきましたが、本質は違うのではないか。最初は大脳に思考のモデルが形成されるが、それが小脳に写し取られて、そのモデルをもとに小脳が考えるようになる。しかも、無意識のうちに―。このような小脳の内部モデルというのが、人間の脳の働きの最も高度な部分に大きく貢献しているのではないか、というのがオチになります(笑い)。

脳科学総合研究センター創立10周年記念シンポジウムで講演する伊藤正男氏(2007年10月24日)
(提供:理化学研究所)
脳科学総合研究センター創立10周年記念シンポジウムで講演する伊藤正男氏(2007年10月24日)
(提供:理化学研究所)
小脳回路の模型図
(提供:伊藤 正男 氏)
小脳回路の模型図
(提供:伊藤 正男 氏)

(完)

伊藤正男 氏
(いとう まさお)

伊藤正男(いとう まさお)氏のプロフィール
1928年名古屋市生まれ、53年東京大学医学部医学科卒、70年東京大学医学部教授、1986同医学部長、89年理化学研究所国際フロンティア研究システムチームリーダー・グループディレクター、1991年 同国際フロンティア研究システム長、97年同脳科学研究センター所長。2003年から現職。94-97年日本学術会議会長。86年日本学士院賞・恩賜賞、96年文化勲章受章、日本国際賞受賞。国際脳研究機構会長、国際生理学連合会長も歴任。小脳の神経細胞に見られる「長期抑圧」という現象が学習機能そのものであることを初めて証明した画期的な成果など多くの研究業績で国際的に知られる。日本の脳科学の進展に果たし役割は大きく、「日本の脳研究のゴッド・ファーザー」と呼ぶ人(立花隆氏「脳を極める」)もいる。

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