「社会の期待集める脳研究」
脳は研究対象としてもっとも難敵であり、それだけに研究者にとっては魅力にあふれた領域でもある。研究者だけではない。難病あるいは高齢社会に伴って増えている痴呆症などの治療や、より高度なコンピュータやロボット開発に向けてのブレークスルーにつながる成果を期待し、先進各国がもっとも力を入れている研究分野となっている。さらに最近は、最適な教育法を求める観点から脳の研究が大きな関心を集めている。日本の脳科学の先駆者で、いまでも指導的な役割を担う伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問に教育にかかわる面を中心に脳科学の現状を聞いた。
―特定の部分を使いすぎるとまずい影響も、ということですが、そもそも練習すればどうして体操の選手のようなことができるかについてはどのように考えられているのでしょう。
ものを考えるのは大脳の役割で、小脳は運動の中枢とずっと考えられていました。しかし、小脳の研究が進むうちにそうではなく、知能にも大いに関係していることが分かってきました。ものを考える大脳を小脳がバックアップする「内部モデル」という仕組みです。練習するとどうしてスポーツ選手のようなことができるかについては、小脳の中に手や足のモデルがつくられるから、と考えることができます。大脳は実際の手や足をどう動かすかを考えなくても、小脳の中のモデルを動かしてやればよいのです。
このような考え方は機械については1970年代から取り入れられています。航空機を高空で飛ばす際、パイロットが温度、摩擦などを一々、調節しながら操縦していては間に合いません。装置の中に温度変化などを与えたモデルを組み込み、パイロットはモデルをきちんと動かしてやれば航空機もちゃんと飛ぶ仕組みができています。
人間の運動については、航空機のようには簡単ではありませんが、ゴルフも練習を重ねるうちに目をつぶってもボールが打てるようになりますね。これは小脳の中でボールを打っているから可能になる、と考えられるのです。運動をコントロールする大脳の運動野から信号が出て手足など運動器官に伝え、それを視覚部が「動きましたよ」と確認するようなことを、いつもいつもやっているわけではない、ということです。小脳の内部モデルからのフィードバックだけで動くことができるようにしているのです。すべての動作を視覚でわざわざ確認しなくて済むようにです。スキーがなぜうまいか聞かれてもうまく説明などできないでしょう。こうして話をしているときも、口をどう動かそうかなど考えずに無意識にしゃべっていますね。それはモデルのお蔭です。
同様なことは運動だけでなく、ものを考える場合にも当てはまると私は考えています。心的活動の内部モデルです。心的活動は大脳の執行皮質というところが主役となり外界のメンタルモデルをどんどん作り、このモデルを使ってものを考え、その際、小脳に内部モデルができるのではないか、と考えるのです。小脳で起きることは意識に上りません。大脳のメンタルモデルが小脳に内部モデルとして移されることによって、意識から無意識への移行が行われるわけです。心的活動も無意識にできるということで、思考と運動には類似性があると言えます。
―大脳がすべて担っているわけでなく小脳にどんどん肩代わりさせているという仕組みには感心しますが、どのようにして確証を得られたのでしょうか。
こうした内部モデルの考え方は、証明は難しいのですが、脳の画像を調べる方法の進歩などから、いろいろな証拠が集まっており、確立した考えになりつつあります。
証拠の中には、小脳の障害による精神症状もあります。幻覚や自閉症などです。自閉症についてはCAPS2という遺伝子の異常が関係していることがわかり、理化学研究所の分子神経形成研究チーム(古市貞一チームリーダー)がこの遺伝子を欠いたノックアウトマウス(注)をつくりました。その行動を観察すると自閉症の患者とそっくりです。通常、2匹のマウスをかごに入れてやるとすぐ突つきあって遊ぶのですが、ノックアウトマウスはお互いに近寄りもしません。他のマウスに関心がないのです。
自閉症の子供は言葉には異常はなくてコミュニケーションはできるし、中には、ものすごく頭のよい子もいます。記憶力がよく、円周率(π)を大変なケタまで覚えていたりする子もいるのですが、他の子供を見て、何を考えているのか、悲しんでいるのか喜んでいるのか分かりません。ですから、関心が持てずそっぽを向いたり、けんかになったりします。自閉症にはいくつかの遺伝子が関係し、大脳にも変化が起こるようですが、主要な原因は小脳の育ちが悪く、内部モデルをつくることができないためと思います。
教育や成長というものは、外の世界のモデルを脳の中にどのようにつくっていくかの過程だと言えないこともありません。普通は大学卒業までに頭の中にスタンダードなモデルができ、その内部モデルがよければ社会に出てからも成功するといえます。逆にうまくできていないと、社会に出てから作り直さなければならないことになります(笑い)。 よく化けるというのですが、大学院の学生など見ていますと、急に変わることがあります。それまで何も分からなかったのが、急に分かるようになって大変な発明をするということが起きます。教育というのは、体で覚えるのが大事と、昔から言われていますが、正しいのですね。
新しいことを考えるのは大脳の役割ですが、創造するには小脳のデータベースがしっかりしていることが必要で、片方がないと脳は半分の働きしかできません。内部モデルの実体をつかむことは大変興味あることなのです。
- 理化学研究所・分子神経形成研究チーム(古市貞一チームリーダー)による「自閉症に関連する遺伝子異常を発見」に関するプレスリリース(2007年3月23日)
(続く)
伊藤正男(いとう まさお)氏のプロフィール
1928年名古屋市生まれ、53年東京大学医学部医学科卒、70年東京大学医学部教授、1986同医学部長、89年理化学研究所国際フロンティア研究システムチームリーダー・グループディレクター、1991年 同国際フロンティア研究システム長、97年同脳科学研究センター所長。2003年から現職。94-97年日本学術会議会長。86年日本学士院賞・恩賜賞、96年文化勲章受章、日本国際賞受賞。国際脳研究機構会長、国際生理学連合会長も歴任。小脳の神経細胞に見られる「長期抑圧」という現象が学習機能そのものであることを初めて証明した画期的な成果など多くの研究業績で国際的に知られる。日本の脳科学の進展に果たし役割は大きく、「日本の脳研究のゴッド・ファーザー」と呼ぶ人(立花隆氏「脳を極める」)もいる。