「社会の期待集める脳研究」
脳は研究対象としてもっとも難敵であり、それだけに研究者にとっては魅力にあふれた領域でもある。研究者だけではない。難病あるいは高齢社会に伴って増えている痴呆症などの治療や、より高度なコンピュータやロボット開発に向けてのブレークスルーにつながる成果を期待し、先進各国がもっとも力を入れている研究分野となっている。さらに最近は、最適な教育法を求める観点から脳の研究が大きな関心を集めている。日本の脳科学の先駆者で、いまでも指導的な役割を担う伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問に教育にかかわる面を中心に脳科学の現状を聞いた。
―先生に脳の話全般をうかがうと時間がいくらあっても足りませんから、先日、教育とのからみで講演されていた内容に沿って、脳科学の現状を聞かせてください。
最近、3回あちこちで話したので、どんな話だったか混乱していますが(笑い)。OECD(経済協力開発機構)でも、この10年ほど脳研究の応用として幼児期・少年期の学習との関連を解明する国際協力をやってきました。大事であるのと同時に大変難しい問題です。英語を何歳から始めた方がよいか、ピアノの練習はいつごろからやれば、といった問いに正確に答えられればいいが、これが結構難しいのです。思考する脳のメカニズムを解明するのは簡単ではありません。人間の思考を知るには動物ではなくてやはり人間の脳を調べなければならないからむずかしいのです。
ということで、細かい具体的な発言は慎重にならざるを得ません。しかし、一般的にこういうことは言えるということを話したわけです。かなりの推論が入っているという前提で。
アインシュタインの言葉に次のようなものがあります。大原理を発見したときに、どういう風に考えたかというアンケートに答えた手紙が残っているのです。数学的な原理を一生懸命に考えているとき、最初はある種の図形のようなイメージを思い浮かべながら漠然と考えをさまよわせていたが、突然正解がひらめいた。その内容を人に分かるように言葉で説明できたのはその後で、最初のひらめきは、直感的、非言語的だったというのです。つまり最初は書いたり、話したりに使う言葉が何か役割を果たしたとは思えず、それは記号であり映像のようなものだったというのです。
アインシュタインはそれを「視覚的か筋肉的なもの」と言っています。思考の第2段階になって初めて言葉で表現できるようになるということですね。人類は言語を獲得したから思考ができるといわれて来たが、創造的思考というのは、言葉が後から来るようです。無意識に考えるということが意外に大事だということで、そのような脳の仕組みがいま懸命に考察されているところです。
大脳には100億の神経細胞があります。コラムという構造があり、10万個の神経細胞がこの円筒形の中に詰め込まれていて、一つひとつのコラム単位で活動が起こります。いろいろな物体を見たときいくつかのコラムがいろいろな組み合せで働くことが確かめられています。それぞれのコラムが情報をまとめてコードしているわけですが、このコラムの数は10万本。それぞれ10万個の神経細胞が詰まっていますから、大脳全体の神経細胞の数は、10万かける10万で100億個という計算になります。
ところで、大脳はおおざっぱに言えば50ほどの領域に分かれ、それぞれ違ったことをしています。一つの領域に含まれるコラムの数は2,000本しかないわけです。小脳になると小さい神経細胞が多いので細胞の総数は大脳皮質と同じぐらいになりますが、一つの機能単位であるマイクロゾーン(微小帯域)の数は、5,000個から10,000個しかありません。もちろん、こういう数字はおおまかなもので、数え方でかなり違ってきますが、いずれにしても脳の神経回路をつくる材料はやたらにはなくて、何もかもはできないということがいえます。
国によっては、オリンピックで金メダルをとるために、小さなうちから体操に特化した大変な訓練をするようですが、金メダルを取った後はどうなっているのでしょう。そのときは国家的英雄だともてはやされるわけですが、その後、コーチになったのはコマネチ(編集者注:ルーマニア=当時、の体操選手。76年、80年のオリンピックで計金メダル5、銀メダル3、銅メダル1を獲得)くらいで、後の選手たちの消息はあまり聞いたことがありません。どうしているのでしょうね?
私は、小さいころから無理な頭の使い方をするのはよくないと考えています。訓練により脳の活動領域は広がるとはいえ、限りがあるのだから、その人の得意な領域を選択することがまず第一に必要です。昔から、子どもの得意なところを引き出してやるのが教育だ、といわれていますね。教育に一番大切なことは、子どもの選択を助けてやるということではないでしょうか。
才能は多様で、いろいろな人が集まって社会も厚みがでます。世の中、数学の先生みたいな人ばかりだったら(もちろん例外はありますが)、面白くないでしょう(笑い)。
(続く)
伊藤正男(いとう まさお)氏のプロフィール
1928年名古屋市生まれ、53年東京大学医学部医学科卒、70年東京大学医学部教授、1986同医学部長、89年理化学研究所国際フロンティア研究システムチームリーダー・グループディレクター、1991年 同国際フロンティア研究システム長、97年同脳科学研究センター所長。2003年から現職。94-97年日本学術会議会長。86年日本学士院賞・恩賜賞、96年文化勲章受章、日本国際賞受賞。国際脳研究機構会長、国際生理学連合会長も歴任。小脳の神経細胞に見られる「長期抑圧」という現象が学習機能そのものであることを初めて証明した画期的な成果など多くの研究業績で国際的に知られる。日本の脳科学の進展に果たし役割は大きく、「日本の脳研究のゴッド・ファーザー」と呼ぶ人(立花隆氏「脳を極める」)もいる。