インタビュー

第4回「残された仕事−平和を求めて」(伏見康治 氏 / 理論物理学者)

2007.07.17

伏見康治 氏 / 理論物理学者

「三筋四筋の道」

伏見康治 氏
(撮影:菅沼純一)
伏見康治 氏
(撮影:菅沼純一)

数え年99歳、今なお健在な怪物物理学者、伏見康治の一端を4回にわたって紹介する。
伏見康治は『不思議の国のトムキンス』で戦前から多くの科学ファンを魅了し、原子物理学、原子核物理学に関する多くの優れた読みものを著した。戦争中は厭戦者として大阪大学の研究室を動かず、戦後は荒廃した日本の科学研究環境を確立するために労を惜しまず、やがて原子力利用研究では一大論争を巻き起こす。後年、学者社会の国会・日本学術会議の会長に選ばれ、遂には本当の国会議員も務める。ソ連崩壊時は、科学者社会の先頭にたってロシアの科学者救援活動を牽引し、今なお核兵器の廃絶を願い、北朝鮮の孤立を憂える。年内には、戦前10回、科学雑誌に連載された『波うつ電子』(仮題)が、65年余の年月を越えて、科学読み物として、学生のテキストとして、人々の期待に応えて一冊の本として蘇り、「丸善」より出版される予定。

今年6月3日開かれた「伏見康治先生の白寿を祝う会」には200人以上の伏見にゆかりのあるさまざまな分野の人々が集まった。伏見は会の終わりにあたって、次のように挨拶した。

「こんなに長生きするとは思わなかった(会場爆笑)。それで、心の準備ができないまま99歳まできてしまいまして、おめでたいことなのか、あるいはそうでないことなのか。これまでいろんなことを私なりにやってまいりまして、平和運動に関連する仕事がいちばん最後の仕事になっています。皆さんのお助けをもちまして、私なりにいろんな社会奉仕をしてきましたが、能力が足りなくて、一向にお役に立ってないことを残念に思っています」

折りしも、同日ほぼ同時刻、近くの別の会場で「湯川秀樹生誕100年記念講演会」が開かれていた。

その湯川は1955年7月、米ソ冷戦構造を背景にした熾烈な水爆開発競争を何とか押しとどめようとなされたラッセル・アインシュタイン宣言の署名者の一人だ。

この宣言は2年後、カナダの寒村パグウォッシュ村で第1回が開かれたパグウォッシュ会議につながった。日本から湯川、朝永振一郎、小川岩雄の3人が参加、いまやいずれも故人だ。この流れを汲んで1962年第1回科学者京都会議が開かれた。

伏見は1981年の第4回から科学者京都会議に参加し、同年カナダで開かれた第31回パグウォッシュ会議に向かう直前、病床の湯川を訪ねるが、湯川は起きているのがやっとの状態。もうつらいのでとこの会見は10分弱で終わった。

「ぼうぼうと伸ばしたひげのせいもあるが、私にはこの場面が能のシテ役の引き際のように思われた」(伏見康治著作集・第7巻)湯川が応接間から奥へ引き込むときの様子を伏見はこう記している。

伏見は、湯川も音頭をとって出立したパグウォッシュ会議に対して当の湯川が「飽き足らないものを感じている」様子が気になった。

パグウォッシュ会議から帰国後数日して、伏見は湯川の死に直面する。

「私は能のシテのように、さびしげに舞台を去っていく先生の後ろ姿を再び夢に見た。そしてこれではならないとふるい立った。パグウォッシュ会議を初心に立ちもどらせなければならない、核兵器の廃絶の理想に向かって大躍進を試みなければならないと、私は新しく決意したのである」(同上)

先のラッセル・アインシュタイン宣言の4ヶ月後の11月、下中弥三郎(世界連邦建設同盟理事長)が提唱し、湯川秀樹、平塚らいてう等7人によって「世界平和アピール七人委員会」が結成された。委員は死去などで次々と変わり、伏見は井上靖とともに1982年から参加したが、1983年に参議院議員に当選、議員との併任を避けるため辞任した。が、6年後の1989年参議院議員を6年一期で引退、1995年再び参加した。

委員会は1997年以来、実質上休眠状態にあった。伏見は活性化することを自らの使命と考え、事務局長にパグウォシュ会議の評議員だった小沼通二を迎えた。2004年4月活動は再開され、小柴昌俊が辞めた後を追って、小沼も委員となった。

伏見は、七人委員会は一時抜けたものの、参議院にいる間に、新たに二つの核廃絶運動の創設に参加している。いずれも永らく分裂状態にあった原水爆禁止運動を停滞させないための試みだった。

一つは、参議院議員の宇都宮徳馬らによって提唱され、主に国会議員を中心とした超党派の「核軍縮を求める22人委員会」。1984年5月結成され、伏見は、この会の活動に積極的に関与した。

もう一つは、1986年4月の呼びかけである。伏見康治、隅谷三喜男(当時・東京女子大学長)、磯村英一(核禁会議議長)ら34名は「日本国民として国際平和年における核兵器廃絶の諸行動をどう受け止めるか、討議の場――核兵器廃絶運動連帯」の実現を広く人々によびかけたのだった。

この「核兵器廃絶運動連帯」は、1987年、88年、89年と続けて海外(米中ソ、ニュージーランドなど)から然るべき人を招き、「国際フォーラム」を広島、長崎、京都などで開催した。

伏見はソ連科学アカデミーの外国人会員だった関係もあって、かねてより同アカデミーの副総裁、エフゲニー・ベリホフと親しく、ソ連からの招待者はベリホフの推薦によるところが大きかった。ベリホフはリベラルな実力者でゴルバチョフの信任も厚かった。米国からは地下核実験の検証問題の専門家フォン・ヒッペル、水爆開発チームの有力な一員だったR.ガーウィンらを招いた。

伏見は1986年、自らの平和運動に対する立場を以下のように要約している。

  1. 原子力の兵器利用と平和利用とを厳密に区別して、平和利用を大いに推進するが、兵器利用はやめさせようとする立場。日本国民の多くがそう考えていると思う。
    平和利用に徹するとは、兵器利用に無関心でいるということではないはずである。
  2. そこで日本の科学者たちは何をしているかを自問してみたい。核兵器廃絶を呪文のように唱えて久しいが、そのための科学技術者の義務を果たしてきたであろうか。地下核爆発の探知という科学技術的問題が提出されており、しかも地震国日本には当然ながら地震学者がたくさんいる。にもかかわらず、地下核実験探知問題を地震の問題として研究している人は、皆無に近いのはどういうことか。

日本の反核兵器運動は情緒的で具体的な策にかけると、伏見は一貫して批判的である。

「政治家が大きなことを言うのに対し、元来科学者はつまらないことに興味を持つところから出発したのであった。原子兵器廃絶という大きなことを果たすために、われわれ科学者は一見つまらない技術的なことを積み上げて行こうではないか」
(「21年後の反省―原爆記念日に寄せて―」1966年8月6日『朝日新聞』夕刊)

伏見はABCC(原爆傷害調査委員会、現・放射線影響研究所)についても、被爆者をモルモット扱いしているとか、占領軍の占領政策の一環だとか、さまざまな非難があるが、被害者の立場で徹底的に調査研究を行っておくことは科学者の社会的責任であると、再三再四指摘している。

また伏見は、レーガンが1983年SDIを高らかに提唱したときにはいち早く、レーザーや加速器の研究者たちに声をかけ、SDI研究会を発足させた。日本がSDI研究に巻き込まれないよう研究者の結束を固めておこうというのが伏見の真意だった。

伏見の中学時代からの親友で、物理学上のライバルでもあった渡辺慧は、伏見は偉大な巨匠でレオナルド・ダ・ビンチに例えられると書いているが「伏見さんの絶大な努力にもかかわらず、実際の社会を大して動かすことには成功しなかった」と伏見の歩みを冷ややかに見つめ、その才能の浪費を惜しむ。しかし、それでも「著作の執筆をやめなかったプラトンの場合によく似ている」と記している。(「伏見康治著作集・第3巻『解説』」)

伏見は99歳の今、ほぼ毎月開かれている「NDJ(核軍縮研究会)」という10人程度の研究会に、「歩くのに、こんなにいろんな筋肉を使うとは思わなかった」と感嘆しながら、横浜市にある自宅から会場の市谷まで電車を乗り継いで毎回欠かさず出席している。

(続く)

(科学ジャーナリスト 菅沼 純一)

ページトップへ