インタビュー

第1回「しゃれ・頓智・機智」(伏見康治 氏 / 理論物理学者)

2007.06.25

伏見康治 氏 / 理論物理学者

「三筋四筋の道」

伏見康治 氏
(撮影:山本壽)
伏見康治 氏
(撮影:山本壽)

数え年99歳、今なお健在な怪物物理学者、伏見康治の一端を4回にわたって紹介する。
伏見康治は『不思議の国のトムキンス』で戦前から多くの科学ファンを魅了し、原子物理学、原子核物理学に関する多くの優れた読みものを著した。戦争中は厭戦者として大阪大学の研究室を動かず、戦後は荒廃した日本の科学研究環境を確立するために労を惜しまず、やがて原子力利用研究では一大論争を巻き起こす。後年、学者社会の国会・日本学術会議の会長に選ばれ、遂には本当の国会議員も務める。ソ連崩壊時は、科学者社会の先頭にたってロシアの科学者救援活動を牽引し、今なお核兵器の廃絶を願い、北朝鮮の孤立を憂える。年内には、戦前10回、科学雑誌に連載された『波うつ電子』(仮題)が、65年余の年月を越えて、科学読み物として、学生のテキストとして、人々の期待に応えて一冊の本として蘇り、「丸善」より出版される予定。

『不思議の国のトムキンス』の「訳者まえがき」は瑞々しい。伏見康治はこう記している。

「この本を読んで私はげらげら笑った。私だけでなく仲間の物理学者もみんな腹を抱えた」「この本はいわば、物理学の漫画である」

「こういう良い漫画の書けるガモフは2つの資格を持っているに違いない。第1、物理学が本当にわかっていること。駆け出しの物理学者にこれだけの大胆なしゃれはできるはずがない。第2、しゃれるだけの頓智と機智に恵まれていること。ガモフより偉い学者はいくらもいるが、漫画を書くセンスを持ち合わせる人は少ない」

科学史の高田誠二は、旧制の高等学校の頃、伏見康治が書いたものに遭遇して以後、ほかの科学啓蒙作品に飽き足らなくなったと述懐し、伏見が「訳者まえがき」でガモフを評したと同じことを伏見自身に当てはめて、科学雑誌記事ライターに望まれる脳力の筆頭に上げられるべきものと、物理学会誌に書いている。

伏見はすでに1940年から41年まで、まる2年にわたり一ヶ月を除き毎月、「新物理学講話」として月刊雑誌『科学知識』に23回連載し、これは1942年には『驢馬(ろば)電子―原子核物理学二十話』として一冊にまとめて出版された。

翌1943年、『不思議の国のトムキンス』が訳出され、多くの読者を獲得した。伏見は1940年、30歳余にしてすでに大阪帝国大学の教授だった。その研究の真っ盛りに、一般向けの新しい物理学、原子核物理学の啓蒙書を営々と書きあげている。

そんな時期、湯川秀樹からおもしろい本があるよと『不思議の国のトムキンス』の原書を借り、「まさに琴線に触れた」と感じとったのだった。

ごく最近の座談会(注)で伏見は「『驢馬電子』を書いたのはガモフにつられたんだと思います」と語っているが、これは時期的に合わない。おそらく、海の向こうとこちらで、時を同じくして、新しい物理学を人々に伝えるのにふさわしい新しい書き方の発見があったのだ。

『驢馬電子―原子核物理学二十話』の「まえがき」を伏見は、こんなふうに結んでいる。

「終わりに私はこの一連の話を楽しみつつしている事をあえて申し上げておきます。

専門の世界では、いま申した純粋ないわば抽象的な思惟が主役を務めているので、(中略)そのために息もつけない苦しさを覚えることがあります。

いわば裃を脱ぎ捨てて浴衣で寛ぎたい。ひざを崩して皆さんと語り合うときに、かえって事物の本当の理解が得られるようにも思われますし、奇想天外の妙案が浮かんでこないでもない。

それが忙しいはずの本職の時間を割いてこういう駄弁を弄する私の言い訳です」

多忙をものともせず伏見は、新しい書き方でどんどん書く。伏見は新しい物理学の書き方の発見に、独自に、そしてガモフとともに辿り着いた。先ほどの座談会で「書くのも楽しみ、物理の実験をするのも楽しみだったね」と語っている。

1941年12月1日、新刊の月刊雑誌で新しい連載が始まる。この連載を伏見に持ちかけたのは、不思議なことに特に面識のなかった仁科芳雄だった。

1941年、太平洋戦争の始まる年の春、大阪大学理学部物理教室伏見教授宛電報が飛びこんできた。差出人は仁科芳雄。近代物理学のメッカ、理研に、伏見は直接の縁がなく、仁科とは個人的な話をしたことがなかった。何しろ相手は物理学会の重鎮である。「戦時研究の片棒を担がされるのかな」と心配したが、とにかく伏見は指定の大阪駅待合室に伺候した。ところが、今度『図解科学』という雑誌をつくるから原稿を書いてくれないかという依頼、伏見はほっとすると同時に拍子抜けしたという。

では、仁科は伏見になぜ依頼したのか。伏見自身の推測では、仁科は多忙でおそらく伏見の連載を読んではいなかっただろう、理研に入り浸たっていた同級生の鳩山道夫の介在によるのではないか、伏見が科学の啓蒙的な読み物を雑誌に書いていることを何かの折に仁科に話したのではないか、という。

『図解科学』の連載の初回は「飛び交う分子」ではじまり、1944年2月まで飛び飛びに10回にわたって連載された。戦争の状況はますます敗色濃いものとなり、雑誌はやがて休刊に追い込まれる。

伏見の書いた雑誌の連載は『驢馬電子』を始め、後にほとんどが1冊にまとめられたが、『図解科学』の連載は例外だった。しかし、65年余の歳月を超えて奇跡的に1冊にまとめられることになった。伏見自身もまったく予期しないことだった。次回は、この経過について触れる。

(注)座談会=『図解科学』の連載をめぐって(2007年2月27日)

(続く)

(科学ジャーナリスト 菅沼 純一)

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