「真善美への情熱-イノベーションの源」
世界中が政策のキーワードを、科学技術からイノベーションへとシフトしてきている。日本でも、安倍首相の肝いりで「イノベーション25」の検討が進んでいる。いま、なぜイノベーションなのか。イノベーション25戦略会議の座長を務める、黒川 清・内閣特別顧問に聞いた。
—ものづくりの面ではどうでしょう。
例えば、日本の携帯電話は、14社が作っています。世界市場では、1位がモトローラ、2位がノキア、3位がサムソン。日本は14社合わせてもサムソンにも勝てない。これが日本の弱さです。しかし、モトローラもノキアも中の部品の約65%は日本製。つまり、ここに見られる日本の強さと弱さを理解することが大事なことです。
強いところは競合して伸ばす。弱いところは、グローバル時代なのだからスピードの問題であり、そこを強くするのは公費では無駄です。企業ならどうするでしょう。時間と、予算規模で考えるでしょう。当然のことです。これが戦略というものです。グローバル時代だから、弱いところは世界で強いところと組む。そして早く世界の生活者に出し、市場を作ることが大事です。
—アイデアを持っている人はいても、イノベーターとなる人は少ないですよね。
小倉さんの例で見るようにイノベーション、イノベーターは結果として破壊者ですから、既存勢力を壊してしまう。創造的破壊をするためには、まず破壊しなければいけませんから。そのため、既得権グループのものすごい抵抗があるわけです。
ただし、その人たちが壊したいと思うのは、これは哲学的に良いはずだとか、美しいという、より高次の哲学があり、つまり「真、善、美」の感覚フロネシス、その情熱があるからこそ、大部分の人が「できない」と言っても人がついてくる。ここもイノベーションには大事なところです。
田宗一郎さんもそう、ソニーを作った井深大さんや盛田昭夫さん、トヨタを作った豊田喜一郎さん。喜一郎さんは、最初は豊田自動織機製作所ですが、そのノウハウを活かして1935年ごろに自動車を作り始めた。みんなの反対を押し切ってね。とても難しい。いくつも失敗をする。多くの障害を越えていく。それでも、これをやるんだ、という熱い思いと志、フロネシスを持ってやる人がイノベーターなんです。
反逆児的な「世間の常識」を破る人たち、そういう人をたくさん作ることが大切です。反逆児といってもただ壊すだけでなくて、より高い目標のためにやるのが大事なことで、だから小倉昌男さんは引退した後、障害者のための活動をいろいろやった。
—なぜ今イノベーションという言葉が出てきたのでしょうか。
多くの人が意識はしていないのだけれど、この10年で「科学技術への投資」という議論が「イノベーション」に変わってきたのは、それなりの理由があると思います。グローバル時代の競争も激しい。早い者勝ちです。従来の研究から市場までを自前でやり通す「リニアーイノベーション」の時代ではなくなった。さらに地球規模の大課題に対しては今のままでは間に合わなくなると、多くの人たちが気づき始めたんです。気候温暖化、環境の劣化、南北問題によるテロ、貧困問題、エイズなどの問題により多くの人が不安を感じ始めた。そのとき、先進国がこれだけ科学技術に投資してきたのだから、そういう問題を解決してくれないかな、と期待し、感じている。だから、突然イノベーションが出てきたんですよ。僕はそう思っている。
その一つの証拠は、さまざまな面でグローバル化が進み、企業もグローバル化してくると、企業価値の評価が変わってきた。今までの冷戦後の評価は、MBA(経営学修士)的パフォーマンス的評価、つまり製品、サービスなどで効率よく利益を上げ株主に還元するというのが会社の評価だった。ところが、この数年、それがガラっと変わった。
世界大手コンサルタント会社の動きを見ていると、今までの企業評価は、株価や営業利益などの目に見える資産(アセット)で約70%の評価が行われてきた。ところがここ数年で、無形資産(インタンジブルアセット)が約70%を占めるようになった。それは、会社の財務状況だけでなく、会社統治、透明性、さらに社会貢献、人材への投資、株主だけではなく世界の課題にどんなことをしているか、環境、省エネ対策等々をどの程度、自発的に行動しているのかです。このような情報がフラットにどんどん公開される。隠す企業はいずれだめですね。そうしたインタンジブルアセットで評価されるようになった。
つまり、コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ(Corporate Social Responsibility)が、みんなそのような指標になってきているように、グローバル情報時代になって、地球的な課題がみんなの不安要素の前面に来ているからなのです。
(続く)
(科学新聞 中村 直樹)
黒川 清(くろかわ きよし)氏のプロフィール
1962年東京大学医学部卒、69年東京大学医学部助手から米ペンシルベニア大学医学部助手、73年米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部内科助教授、79年同教授、83年東京大学医学部助教授、89年同教授、96年東海大学医学部長、総合医学研究所長、97年東京大学名誉教授、2004年東京大学先端科学技術研究センター教授(客員)、東海大学総合科学技術研究所教授等を歴任。この間、2003年日本学術会議会長、総合科学技術会議議員に就任、日本学術会議の改革に取り組むとともに、日本の学術、科学技術振興に指導的な役割を果たす。06年9月10日、定年により日本学術会議会長を退任、10月、内閣特別顧問に。
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