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「日本文明」はあり得るか(村上陽一郎 氏 / 東京理科大学大学院 教授、東京大学 名誉教授)

2010.01.03

村上陽一郎 氏 / 東京理科大学大学院 教授、東京大学 名誉教授

公開シンポジウム「科学技術と知の精神文化-新しい科学技術文明の構築に向けて」(2009年12月11日、日本学術会議など主催)特別講演から

東京理科大学大学院 教授、東京大学 名誉教授 村上陽一郎 氏
村上陽一郎 氏

 メソポタミア文明やエジプト文明、古代中国文明という言葉があるが、ミャンマー文明とか日本文明というのは通常、国際的には使われない。それが日本文化の特性とどこか通底するところがあるのではないかというのが私の基本的な仮説だ。

 農耕社会であれば文化と呼んでいい。今はさらに拡張されて狩猟文化、場合によっては狩猟採集文化のようにも文化という言葉が十分使える。しかし、文明と呼ばれるには文化に何かプラスアルファがなければならないのではないか。そのプラスアルファが工業化や民主化のようなヨーロッパ近代の社会組織であるとすれば、古代エジプト文明も古代ローマ文明も古代中国文明もメソポタミア文明も文明とは呼べないはずだ。18世紀に英語でcivilizationという言葉ができたとき、ローマ文明とか中国文明とかと言えたのはなぜだったのか。

 civilizeという動詞つまり市民化するとか、都市化するというのは、明らかにヨーロッパ近代社会のイデオロギーを背景にした概念だと考えている。では、市民化の「化」、都市化の「化」、化けさせる対象になるものは一体何なのかというと、これは実は自然だったと理解することができる。自然というのは、ヨーロッパの伝統的な社会の中では明らかに神のつくった世界だから、最終的には神の手によって管理され、支配されている。だとすれば、それを人間の手で勝手に変えるというのは何事なのか。それは、やはり18世紀に文明、civilizationという言葉ができたことと密接に関係していると思う。まさに神の手によって行われてきたものを一つ一つすべて人間の手によって置きかえるという大実験をやったのが18世紀のヨーロッパの啓蒙主義の時代だったと考えてよいのではないか。

 では、人間の手で都市化されたり市民化されたりするべき自然というのはどういうものかと言うと、2つあると考えられる。1つは、通常の意味での自然、しかも、人間の手をかけられていないようなワイルドな自然だ。こうした自然は悪だという価値観が文明という概念に伴って生まれてきたのではないか。フランス人の友人に言われ初めて気がついたのだが、フランス語の「自然な」という形容詞「naturel」は常に「野蛮な」(sauvage)という形容詞とほとんど同義的に使われている。つまり「自然な」ということは「野蛮な」という対象を見下ろしている言葉と同じである。

 要するに、自然であることは野蛮であることに等しいという考え方が一方にあって、ヨーロッパはすべて自然が人間の手によって見事に整えられた形になっていく。既に中世に自然林は一度なくなっているが、例えばドイツ語圏のシュヴァルツヴァルトと呼ばれる森のような人工林に、あるいはルイ王朝の庭園などのように。

 もう1つの自然というのは、実は人間の中に取り残された自然、普通は生物学的な本能といわれたりする食欲、性欲、殺りく欲、睡眠欲などだ。哺乳動物でも性行為が成立するのは、メスの側にきちんとしたシーズンが訪れているときだけであって、それ以外のときはいわば抑制されている。しかし、人間の場合はそういうわけにいかない。チンパンジーやその他ある種の昆虫たちも、時々同種間殺りくをやるが人間ほど大規模にそれをやる生物はほかに見当たらない。人間のこうした第2の自然をとにかく何らかの形で、人間的な手段でコントロールしなければならないというのが人間の宿命になった。特に、いわゆる文明の時代というのは、これらを人間の理性と悟性によって、あるいは感性によって周到に管理すべきである。それが管理されていないのは文明化されていない野蛮人である、という理解が広がっていく。

 こうした人間を矯正する、教化するということの広がりとして、自分たちのような人間管理体制を備えていない他文化、例えば典型的にいえば非文明的な人たちは文明化されなければならない。自分たちと同じような管理体制の中に入らならなければならない、という他文化に対する矯正、あるいは教化というような攻撃性を持つものが文明という言葉にふさわしいのではないか。かつ、それを実行できる社会制度、例えば軍隊・教育制度などを備えた文化こそ文明という名で呼ぶべきではないのだろうか、というのが私の仮説である。つまり、2つの攻撃性を備えているものが文明と呼ばれると考えてみてはどうかということだ。

 さて、そこで日本文化は文明なのかという問いを立ててみる。日本文化の中に2つの攻撃性は備えられているのだろうか。日本の長い歴史を振り返ると、どちらもそういうことを非常に徹底的にやったという形跡はどうも見当たらない。恐らく秀吉の時代か、さもなければ太平洋戦争の一時期ということになるのではなかろうか。

 和魂洋才という言葉がある。和魂洋才とか和魂漢才というのは、自分の核になるものを売り渡したわけではないという言い訳の言葉であって、実をいうとある程度は売り渡している。これが日本が西欧の科学技術文明を受けとめて、ヨーロッパ文化の中になかった国々としてはただ1つだけ非常に科学技術文明を受け入れることのできた国となっていることの1つの根拠になっているのではないか。

 一体、日本文化は文明になり得るのだろうか。日本の製品が世界に広がっていくのは、やや文明的振る舞いであるかのように見えるが、その広がり方をみると、それは利便性だとか、低廉性だとか、安全性だとかといった、1つの文化が持っている決定的な核になるような価値観である何物かではなく、徹底さにおいては比較的表面的な価値観であるように思われる。

 そうだとすれば、なお国際社会の中で日本文化が果たす役割があるとすれば何か。日本文化のもつ非文明性を前提にし、文明的文化の持っている負の効果を薄めながら、文明の恩恵をできるだけ広げていくことができることではないだろうか。国際的な社会の中で何がわれわれの貢献できることなのか、という問いを常に自己に問いかけながら。

 そういう役割が日本文化に託されているのではないだろうか。

東京理科大学大学院 教授、東京大学 名誉教授 村上陽一郎 氏
村上陽一郎 氏
(むらかみ よういちろう)

村上陽一郎(むらかみ よういちろう)氏のプロフィール
1936年東京生まれ、62年東京大学教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)卒業、68年東京大学大学院人文科学研究科比較文学・比較文化専攻博士課程単位取得満期退学、71年上智大学理工学部助教授、73年東京大学教養学部助教授、86年東京大学教養学部教授、93年東京大学先端科学技術研究センター長、95年国際基督教大学教授、2005年東京大学科学技術インタープリター養成プログラム特任教授、08年国際基督教大学客員教授、09年から現職。社会技術研究開発センター研究開発領域「科学技術と人間」領域総括。専門は科学史、科学哲学、科学技術社会学。「歴史としての科学」、「文化としての科学/技術」など著書多数。

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