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和算は武士の出世の道具(城地 茂 氏 / 台湾・国立高雄第一科技大学 教授)

2008.04.11

城地 茂 氏 / 台湾・国立高雄第一科技大学 教授

関孝和三百年祭記念行事(2008年4月5日、東京理科大学 主催)公開講演から

台湾・国立高雄第一科技大学 教授 城地 茂 氏
城地 茂 氏

 数学史を研究する意義は、数学者たちの思考を再現し、そのパラダイムを理解することで、さらなる学問の発展に寄与することといえる。しかし、近世に発展した和算は1887年の日本数学会社(現・日本数学会)設立とともに断絶してしまったため、こうした効果はのぞめない。今回は文化史の観点から、和算をとらえてみたい。

 和算は、茶道や華道などと同じように免許制度がとられていた。しかも江戸時代末期の城下町居住者からは、一種の旦那芸と見られていた。和算を浮き世離れしたものとみなす和算技芸論が数学史界の定説になっている。

 しかし、江戸時代末期の経済的、文化的な担い手は、地方(じかた)の豪農層である。町人は10%程度しかいなく、和算を旦那芸と見るのは特異な人々の観点でしかない。地方の豪農にとって、農村を管理するための測量術、納税の数的事務は、必須の科学技術であり、名主や庄屋へ、さらには名字帯刀を許され郷士へ上るための実務技能だった。伊能忠敬などがそのよい例だろう。

台湾・国立高雄第一科技大学 教授 城地 茂 氏
城地 茂 教授
(関孝和300年忌法要が行われた浄輪寺前で)
(提供:城地教授)

 関孝和が生きたのは江戸時代前期である。文化的な担い手は武士だった。この時代になると戦場で活躍する番方の武士に代わって、勘定方の武士が台頭して来る。兵農分離後の行政では検地が重要になり、孝和が活躍したのもこの分野である。孝和の実家は、主家の改易により父が浪人中で、二男として生まれた孝和は、他家に養子に入るためにも特技としての和算が必要だったと思われる。関家の養子となり、和算で名を挙げた結果、甲府藩に賄頭、今の主計官のような役で召し抱えられる。関家の家格からすると係長が課長に抜擢されたようなもので、和算が孝和の任官に好影響を与えたことは間違いない。

 この時代の和算はこうした勘定方の武士によって支えられたと言うことができ、孝和に続いて建部賢弘、山路主任といった和算家が輩出した。

 和算が勘定方武士によって支えられたことは、孝和の住んだ場所からもうかがうことができる。「甲府様御人衆中分限帳」(1695年)には、孝和は天龍寺前に住んでいたと書かれている。問題は、この「天龍寺」」が現在の四谷にある天龍寺か、天和の大火(1682年)で焼ける前に同寺があった牛込か、ということだ。「御府内沿革図書」(1808-1861)に載っている地図によると現在の牛込警察署裏門付近に孝和の実兄、内山永貞の屋敷が明記されており、さらに数軒先には、孝和の養父と同じ通称である五郎左衛門を名乗る関豊好が住んでいる。孝和の養家と関豊好の関係は分からないが、武家では代々同じ通称を用いることが多い。関豊好は、孝和の養家と何らかのつながりがあった可能性が高い。さらに、関家、孝和の実家、内山家とも菩提寺は牛込・浄輪寺である。

 こうした事実から孝和は牛込に住んでいたのではないかと考えられる。仮に四谷であったとしても、いずれにしろ現在の新宿区内に住んでいたわけだ。当時、番方の武士たちは麹町など千代田区に屋敷をもらっている。これに対し、孝和のような勘定方武士たちが屋敷を拝領していたのは、今の新宿区あるいは墨田区(本所)で、当時の新興地である。江戸城の外堀の内と外に分かれていたわけだ。

 勘定方武士の当時の状況を知る上でも興味深い事実ではないだろうか。

台湾・国立高雄第一科技大学 教授 城地 茂 氏
城地 茂 氏
(じょうち しげる)

城地 茂(じょうち しげる)氏のプロフィール
1959年東京生まれ、85年東海大学日本文明学科卒、87年同大学大学院修士課程終了、87~90年中国・北京師範大学数学史専攻高級進修生課程修了、91~92年英国ニーダム研究所リサーチフェロー、93年ロンドン大学アジアアフリカ学院で博士号取得、95年銘伝大学准教授、97年高雄第一科技大学准教授、2006年から現職。07年から外国語学部学部長代行も兼務。専門は日本数学史・天文学史。著書に「日本数理文化交流史-関孝和と『楊輝算法』」など。

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