ハイライト

科学史が明らかにする「産む性」のいかがわしさ(小川眞里子 氏 / 三重大学 人文学部 教授)

2008.02.01

小川眞里子 氏 / 三重大学 人文学部 教授

公開講演会「人口とジェンダー~少子化対策は可能か~」(2008年1月12日、日本学術会議 主催)講演から

三重大学 人文学部 教授 小川眞里子 氏
小川眞里子 氏

 女性を「産む性」とする見方がどのようにしてつくられてきたかを科学史からみると、18世紀、19世紀の知識人の役割が浮き彫りになってくる。科学的説明、科学言説の形をとることにより、女性が子産み子育てに専念することは自然が命ずるところ、と思わせているところがミソだ。

 どのような科学が使われたかと言えば、まず解剖学。18世紀に現れた男女の骨格図に、19世紀初期のスコットランドの解剖学者J.バークレーが動物を描き加えた絵がある。男の骨格図の傍らに描き加えられた動物は馬だった。18世紀に馬は人間に次ぐ知性的な動物と考えられていたからである。女性骨格図に添えられた動物は何だったろうか。ダチョウなのだ。小さな頭蓋骨、すらりと伸びた首、狭い肩幅といった特徴に加え、ダチョウが大きな骨盤を持つことと、多産だということで、女性の骨格図に描き加えられたわけだ。実際、ダチョウは鳥類の中で最も大きな卵を産むことで知られる。

 動物分類学の分野では、18世紀の博物学者・医者であったリンネによるMammalia(乳房動物)という命名提案がある。それまでの四足動物という呼び名に代わってVivipara(胎生動物)、Pilosa(被毛動物)という候補が上がっていたが、乳房動物という呼び名には女性の乳房を強調する狙いがあった。今日哺乳類と呼ばれる動物群をくくる分類指標としては、このほかにも顎関節、3つの耳小骨といった特徴が挙げられるにもかかわらず、自らの乳房で子育てをする意義を強調したかったわけだ。

 リンネは1752年に乳母制度の弊害を説く論文も発表している。ルソーが「エミール」(1762年)の中で嘆いているように18世紀後半の欧州における識者の関心事は、乳児死亡率をいかに下げるかにあった。当時、欧州は乳母制度が全盛で、生後間もない赤ん坊の大半が田舎の乳母に預けられ、その結果、乳児死亡率が非常に高かったからだ。乳母制度によって都会の女性たちは授乳をしなくなったばかりか、子供もつくろうとしなくなり、人口の減少が危惧される事態を招いていた。加えて重商主義を背景に労働力を増やすことに対する期待が、乳児死亡率を下げなければという動きを強めた。

 Mammalia(乳房動物)という分類名は、18世紀の社会が選び取った名前だ。自然がそう言っている、女性の身体がそう言っているという強力なメッセージとして発揚されたわけだ。

 19世紀後半になると進化論まで援用されている。英国の社会学者ハーバート・スペンサーは分業の程度は社会の価値尺度であると考えており、文明社会の「夫は外で妻は家庭で」という分業は生物進化の必然と信じていた。さらに米国ハーバード大学医学部の薬物学教授だったE.H.クラークは、エネルギー保存則を考慮して「出産のための器官が発達する思春期に女子は頭を酷使すべきでない」と主張した。男女でエネルギーが一定なら、配分を考えなければならない。生理機能を成熟させるのに並々ならぬエネルギーを要する時期に、大量のエネルギーを必要とする頭脳労働すなわち高等教育など女性には有害でしかない、というわけだ。

 こうした主張を盛り込んだクラークの著書「Sex in Education」(1873年)は多くの反論を浴びながらも、13年間で17版という驚異的な売れ行きだった。

 結論を言うと、こうした歴史的事例から浮かび上がることは「少子化傾向があったからこそ、女性を『産む性』と位置付ける科学言説が出てきた」ということだ。自然の命令ではなく、社会の必要からだったのだ。男性ばかりが科学に取り組んでいた危うさがちょぴり見え、最近の女性科学者活躍への期待を納得。

三重大学 人文学部 教授 小川眞里子 氏
小川眞里子 氏
(おがわ まりこ)

小川眞里子(おがわ まりこ)氏のプロフィール
1974年東京大学大学院理学研究科科学史科学基礎論修士課程修了、78年同人文科学研究科比較文学比較文化博士課程中退。86年三重大学助教授、93年同教授。日本学術会議連携会員、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター客員教授、科学技術振興機構社会技術研究開発センター評価委員。専門は科学史・科学論。著書に「フェミニズムと科学/技術」「甦るダーウィン」など。

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