人文・社会科学振興プロジェクト研究事業シンポジウム「芸術を!つくる/楽しむ/研究する」(2007年10月6日、日本学術振興会 主催)報告から

戦時下で日本の芸術・文化は窒息していた。音楽も例外ではない。同工異曲のモノクロームな軍歌と行進曲が氾濫していた。こうした通念が戦後ずっと続いている。先日もあるピアノの数奇な運命を描いたテレビのドキュメント番組で「西洋音楽が敵性音楽として禁止されていた戦時中」というコメントが入っていた。これは、事実と異なる。誤った通念がむしろエスカレートしている。昭和17年ごろ、ジャズが禁止された事実はあるが、古典音楽が禁止されたことはなく、実際にストラビンスキーの音楽などが演奏されていた。
これをちょっと聴いてほしい。映画「七人の侍」の村祭りの場面で使われた早坂文雄の曲だ。「どこの神楽か」と聞かれて早坂は、「どこの神楽でもなく、自分のオリジナル」と答えていたそうだ。次にこれを聴いてほしい。同じだ。実はこの曲は、昭和17年に戦争中の宣伝映画のために作られたもので、国民学校の子供たちが体育をしている場面に使われた。
このように戦後に作られた作品だが元ネタは戦争中に作られたものというのを挙げろと言われれば、5例や10例はすぐ出せる。作曲者たちも戦時中に作った自分の作品がいいと言いにくかったのだと思う。その時代を肯定しているように受け取られるのがいやだから。
昭和20年1月、日比谷公会堂で初演された百人編成のオーケストラのための交響詩「おほむたから」という曲がある。作曲したのは、戦後、日本指揮者界の大御所となった山田一雄だ。「天皇の国」という意味である。山田は、この曲で一種の本歌取りをしている。本歌には19世紀末の巨匠、マーラーの交響曲第5番の第1楽章が選ばれている。マーラーは、絶望的な音楽の書き手として知られている。とりわけ5番の第1楽章は「葬送行進曲」と題されており、まるで死神につかれたごとき音楽だ。
山田はその楽章の構成や雰囲気をそっくり借用し、しかもその上に仏教の声明、つまりお経の旋律を乗せてこの曲を完成させた。昭和20年の1月、正月を祝うために演奏されたということになっている。しかし、実際は一億玉砕に向かわんとする昭和20年の日本国民のための鬼気迫る葬送交響楽ということになる。
この曲のことは、山田の自伝の中に出てくるのだが、復活演奏されることもなかった。山田が、恥ずかしい曲だと、封印してしまったからだ。しかし、私は遺言のつもりで書かれた曲が悪いわけはない考え、とうとうアマチュア交響楽団を口説いて演奏させたことがある。その後、山田が、1991年に亡くなった後、外山雄三が追悼演奏で取り上げた。
小説は、活字だから残る。しかし、音楽は戦争中、抑圧されて、窒息していたという誤った通念だけが残ってしまっている。実際には戦争中も活発にやられており、それが戦後にもつながっている。日中戦争本格化以後、1944年ごろまでに日本近代音楽の器楽を中心とする黄金時代があった、というのが私の結論だ。

(かたやま もりひで)
片山杜秀(かたやま もりひで)氏プロフィール
1963年生まれ、慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。思想史研究家、音楽批評家。著書に「近代日本の右翼思想」(講談社)、「片山杜秀の本1」(アルテスパブリッシング)、共著書に「日本戦後音楽史」(平凡社)など。