ハイライト

裁判官でなく証人として科学者が発言する時代(村上陽一郎 氏 / 国際基督教大学大学院 教授)

2007.06.01

村上陽一郎 氏 / 国際基督教大学大学院 教授

研究会「文明史として見た科学報道50年」(2007年5月30日、日本記者クラブ 主催)講演から

 -BSE(牛海綿状脳症)問題など、政治が都合よく科学(者)を利用する、後始末を科学(者)につけさせることが、最近、目に付く。このような現象についてどのように考えるか、という質問に対し、

 ジャーナリズムの持つ力が、そういうところにも発揮されるべきだと思う。こういうことが社会に広がって良いのか、と。

 例えば科学が不確実なことしかいえない側面がある。(スーパーコンピュータの)地球シミュレータが評判だが、あれに全部(の問題)をのせるわけにはいかない。リニアに因果関係を設定できない問題が科学にあるということを、社会が理解しなければいけない。科学が政治の後始末をさせられる状況においては、因果関係がはっきりしていない前提で動いているかどうか、因果関係がはっきりしていないのに意思決定しなければならないとすれば、何をもって意思決定するのが合理的かを、科学が提示することが大事なことではないか。

 先ほど私は「常識」という言葉で表現した。かつて川の堤防が破れ、家が流されたことがあった。新しく開発された土地に住む新住民の家で、昔からの住民は「あんなところに家を建てて大丈夫か」と言っていた場所だった。その後、国土庁の事務次官が、新たに認可する時、ボーリングとか地質的なアセスメントだけでなく、古老の意見を聞いてやれ、ということをマニュアルに付け加えさせた。

 科学的に確実なことが言えないことに対して、何を導入するかというと「ローカルノレッジ」、そこで古くから通用している知識を判断材料の一つにしましょうという選択がある。

 「転ばぬ先の杖」と私は言っているが、差し当たり手を打っておきましょう、という考え方だ。不確実でこうなるとは限らないが、念のために、ということで、人は日常的によくやっている。そういう考え方を政治的イシューに入れてはどうだろうか。

 裁判官としてではなく、一証人としての立場で科学者が発言する時代ではないだろうか。他の人は、他の証人として意見を言い、それで意思決定に持っていくという。

村上陽一郎(むらかみ よういちろう)氏のプロフィール
1936年東京生まれ、62年東京大学教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)卒業、68年東京大学大学院人文科学研究科比較文学・比較文化専攻博士課程修了、71年上智大学理工学部助教授、86年東京大学教養学部教授、93年東京大学先端科学技術研究センター長、95年国際基督教大学教授、2002年から現職、専門は科学史、科学哲学、科学技術社会学、「歴史としての科学」、「文化としての科学/技術」など著書多数。

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