インタビュー

第2回「DNA鑑定に至る状況」(押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授)

2010.05.17

押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授

「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」

押田茂實 氏

誤りだったDNA鑑定で、無実の菅家利和さんが長年、殺人犯の汚名を着せられ、自由を奪われていた足利事件が投げかけた問題は大きい。信頼性のないDNA鑑定を信じ込み、後から出された正確なDNA鑑定の意味をなかなか理解しようとしなかった裁判官の科学リテラシーに問題はないのだろうか。科学的な捜査、裁判に大きな役割を果たす法医学は司法の世界で十分、尊重されているのだろうか。長年、法医学の第一線で活躍、菅家さんに対するDNA鑑定の誤りを最初に指摘し、再審、無罪確定への道を開いた押田 茂實・日本大学医学部(研究所) 教授に、法医学の現状と司法界の問題点などを聴いた。

―法医学者として扱う遺体は埼玉県に限られていたということですが、栃木県で起きた足利事件にかかわることになった経緯はどのようなものだったのでしょうか。

菅家利和さんが、DNA鑑定によって逮捕されたのが1991年12月で、無期懲役という宇都宮地裁の判決が出たのが、93年の5月でした。私がDNA鑑定の研究を始めたのはその1年前の92年5月ごろです。93年9月から医学生の実習を始めました。自分の血液を採って自分のDNA型を調べるというものです。

DNA型を調べるのに従来1週間くらいかかっていたのを、技術を改良し1日でできるようにしました。「1日でできるなら自分たちにも実習をさせてほしい」と日本弁護士連合会の弁護士約20人がやってきたのが、翌94年9月のことです。この中に佐藤博史弁護士がいました。

菅家さんの1審で担当した地元の弁護士は情状酌量を狙うしかない、と思ったのです。マスコミを含め「DNA鑑定はすごい」という声に引きずられてしまったわけです。ところが、報道されているように西巻糸子さんという地元の女性が、幼稚園の運転手があのような犯罪をするわけがない、と立ち上がりました。菅家さんと同じ幼稚園のバスの運転手をされていた方です。その西巻さんが、私のところでDNA実習を受けた佐藤博史弁護士が書いたDNA鑑定に関する論文をたまたま読んだのです。

西巻さんの依頼を受けて佐藤弁護士が控訴審の弁護を担当したのですが、東京高裁の判決(96年5月)は控訴棄却でした。その年の秋に佐藤弁護士が私に「DNA鑑定の結果が間違っていないか調べてほしい」と言ってくるわけです。「今さらやっても無駄ではないか」と言ったのですが、佐藤弁護士は引き下がりません。それなら元の科学警察研究所の鑑定書を見せてくださいということになりました。

DNAというのは膨大な数の塩基が並んでいるのですが、病気に関係なく配列が何度も繰り返し現れる個所がたくさんあります。足利事件で科学警察研究所が調べたのはMCT118(現在ではD1S80型)という16の塩基からなる配列が何回も繰り返しているところでした。DNAは両親から引き継がれますから、それぞれ親から引き継いだ繰り返し回数を調べることで、従来の血液型に比べればかなりの確率で個人が識別されるという手法です。科学警察研究所は、菅家さんの体液から菅家さんのDNA型を「18-30」、つまり片方の親から受け継いだDNAでは18回、もう一方の親からは30回、この16塩基からなる繰り返しがある、と判定しました。これが被害幼女の衣類に残っていた体液の鑑定結果と一致した、というわけです。

ところが、佐藤弁護士から見せてもらった元の鑑定書を見て、驚きました。科学警察研究所は16の塩基配列が何回あるかを正確に調べられる検査技術を持っていなかったことが分かったからです。16の塩基配列が何回繰り返しているかを調べるのですから、16以下の塩基配列を見分けられる“物差し”がなければ正確には測れません。最低でも16、できれば半分の8つの配列まで測れる物差しが必要です。ところが科学警察研究所は、なんと123もの配列しか見分けられない物差しを使っていたのです。

鑑定書の原図を見た瞬間に、正確さに問題がありそうだということが分かりました。

―それでいよいよ先生ご自身が鑑定となったのでしょうか。

これがなかなか大変でした。私はそれまで親子鑑定を100件くらいやっていましたが、人の手が間に入った試料を使ったことはありません。必ず自分で採血して、あるいは自分で引き抜いた髪の毛でないと鑑定はしてなかったのです。菅家さんは拘置所内にいましたから、ガラス越しの面会では髪の毛も引き抜けません。いろいろ考えた結果、菅家さんに自分で髪の毛を引き抜いてもらい、それをビニール袋に入れて弁護士さんの事務所に郵送してもらうことにしました。検閲されて取り上げられたらおしまいですから髪の毛以外には手紙も何も入れないように、と念を押して…。

こうして97年1月に菅家さんから髪の毛44本が弁護士事務所経由で届きました。後で菅家さんに聞いたら「あんなに痛かったことはない」というのです。DNA鑑定は毛根がついている方が確実に検査できるということで引き抜いてもらったのですが、一緒にとらなければならないと、思い切り44本を一度に引っこ抜いたらしいのです。それだけ必死だったということでしょう。

44本のうち1本を予備試験に使い、4本を順に調べたところ、いずれも「18-29」という結果が出ました。科学警察研究所の鑑定結果は「18-30」ですから、これは明らかに違います。使わなかった残りの毛髪を零下80℃で保存し、97年9月に私の意見書という形で弁護士に回答しました。この意見書は弁護士から最高裁にも提出されたのですが、結局、最高裁はこれを無視し続けたのです。

(続く)

押田茂實 氏
(おしだ しげみ)
押田茂實 氏
(おしだ しげみ)

押田茂實(おしだ しげみ) 氏のプロフィール
埼玉県立熊谷高校卒、1967年東北大学医学部卒、68年同大学医学部助手、78年同医学部助教授、85年日本大学医学部教授(法医学)、2007年日本大学医学部次長、08年から現職。数多くの犯罪事件にかかわる法医解剖、DNA型鑑定、薬毒物分析のほか、日航機御巣鷹山墜落事故、中華航空機墜落事故、阪神・淡路大震災など大事故・大災害現場での遺体身元確認作業などで重要な役割を果たす。編著書に「Q&A見てわかるDNA型鑑定(DVD付)(GENJIN刑事弁護シリーズ13)」(押田茂實・岡部保男編著、現代人文社)、「法医学現場の真相-今だから語れる『事件・事故』の裏側」(祥伝社新書)、「医療事故:知っておきたい実情と問題点」(祥伝社新書)など。医療事故の解析もライフワークとしており、「実例に学ぶ-医療事故」(ビデオパックニッポン)などのビデオシリーズやDVDもある。

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