インタビュー

第5回「科学に国境なし」(伏見康治 氏 / 理論物理学者)

2007.07.24

伏見康治 氏 / 理論物理学者

「三筋四筋の道」

伏見康治 氏
(撮影:菅沼純一)
伏見康治 氏
(撮影:菅沼純一)

数え年99歳、今なお健在な怪物物理学者、伏見康治の一端を4回にわたって紹介する。
伏見康治は『不思議の国のトムキンス』で戦前から多くの科学ファンを魅了し、原子物理学、原子核物理学に関する多くの優れた読みものを著した。戦争中は厭戦者として大阪大学の研究室を動かず、戦後は荒廃した日本の科学研究環境を確立するために労を惜しまず、やがて原子力利用研究では一大論争を巻き起こす。後年、学者社会の国会・日本学術会議の会長に選ばれ、遂には本当の国会議員も務める。ソ連崩壊時は、科学者社会の先頭にたってロシアの科学者救援活動を牽引し、今なお核兵器の廃絶を願い、北朝鮮の孤立を憂える。年内には、戦前10回、科学雑誌に連載された『波うつ電子』(仮題)が、65年余の年月を越えて、科学読み物として、学生のテキストとして、人々の期待に応えて一冊の本として蘇り、「丸善」より出版される予定。

今は参議院選挙の時期である。24年前の1983年、参議院議員選挙で初めて比例代表制が導入された。今回の参議院選挙の比例代表制とは異なって、各政党はあらかじめ順位をつけた候補者名簿を発表することになっていた。

この新制度の導入に伴い、各政党は、候補者名簿の上位に、学者、文化人などの党外候補をおいて、新しいカラーを出そうと競い合った。「出たい人より、出したい人を」「参議院は知性と良識の府」が合言葉となり、特に公明党は「開かれた国民政党」路線を方針として、「超一級の専門家を結集」するため、ほかの党より多数の文化人を名簿上位に載せた。

伏見に立候補を最初に打診したのは公明党の参議院議員・高木健太郎だった。医学者の高木は元名古屋市立大学長で、日本学術会議会員を務めたこともあり旧知の間柄だった。伏見は茅誠司、武見太郎に相談して、立候補を決意した。

伏見康治は公明党の比例代表名簿のトップにランクされた。立候補即当選である。ほかに東大総長だった林健太郎(自民党)、中村哲(社会党)、関嘉彦(民社党)、田英夫(新自由ク連合)らが立候補し当選した。当時のマスメディアは伏見や林健太郎について連日報道、大いに関心を集めた。

「学者に国会議員が務まるのか」と判で押したようなジャーナリストの質問には、伏見も「日本学術会議の議員を長らく務めまして、そこは学者の国会、心配していない」と決まって答えた。

伏見は当選すると、「参議院無用論」に対抗するため、かつて参議院にあった超党派の集まり「緑風会」をイメージして、学者・文化人の党外候補として当選した同期の参議院議員とともに「文月会」(7月に初の会合を開いたため)を結成した。が、3年後の参議院議員選挙では学者・文化人路線は下火になり、「文月会」も影響力を持つには到らなかった。

伏見は、国会議員としての自らの役割を「科学者の御用聞き」と位置づけていた。しかし、宗教を基盤にした公明党の推薦ということもあって、いかに党議拘束されないとは言え、当時の科学者社会の中では、伏見の行動に公然と賛辞を送るものは少数だった。肝心の科学者から門前払いされては仕事にならない。伏見は科学者社会からの孤立を大いに心配した。

そこで「リンクス リセウム」、日本語でいえば「山猫学校」と名づけた任意研究団体を設け、日本学術会議などで培った科学者のネットワークを活用し拡大することによって、科学者社会の御用聞き役を全うしようと試みた。

「リンクス リセウム」の設立に当たっては、山本賢三、石谷清幹、渡貫敏男、大塚益比古、餌取章男、飯沼和正らがその組織作りに協力した。翌年の1984年に発足した「リンクス リセウム」には小谷正雄、久保亮五、猿橋勝子、小川岩雄、小田稔、小柴昌俊、西島和彦らの自然科学者をはじめ、100名を超える人々が参加。民間から大臣になった大来佐武郎(外務)、永井道雄(文部)もいた。

「リンクス リセウム」は、まずは五つの研究会を発足させた。(1)「地球と生物圏の未来予測研究会」(2)「核軍縮研究会」(3)「ビッグ・プロジェクト評価研究会」(4)「安全性研究会」(5)「創造性研究会」。

(1)の座長は、伏見と共同論文を書いたこともある元・気象庁長官・高橋浩一郎が引き受けた。この高橋の研究会はグローバル・チェインジをキーワードに当時まだじゅうぶん認識されていなかった地球規模の環境変化に取り組んだ。(2)は当然、伏見自身が中心となった。(3)は今で言う「科学技術政策の研究」である。日本ではビッグ・サイエンスなど、いったん始まると、そのプロジェクトを中止することは難しい。プロジェクトをいかに評価するか、それを研究しようというものだった。

1989年、80歳で国会議員を一期で引退した後も「リンクス リセウム」は活動を続けたが、1997年、伏見が米寿(88歳)を迎えたのを期に活動を終えた。終わりにあたって、中井浩二らの提案で「21世紀の学術と科学技術」と題する記念シンポジウムを計画し、小田稔、伊藤正男、和田昭允、小平桂一、山崎敏光、中嶋貞雄などの、自然科学の各分野のリーダーがパネリストとして参加した。このシンポジウムには会員以外にも多くの人々が参加し、伏見が主宰した会の終わりにふさわしいものだった。

「リンクス リセウム」は会報『リンクス リセウム通信』を出していた。その中の「二四三五六・伏見語録」は、「伏見康治著作集」(みすず書房)以後に書かれたものをまとめて出版された『アラジンの灯は消えたか?』(日本評論社、1996年11月)に収録されている。

伏見が国会議員だった時期、日本経済は目覚しい成長を遂げ、ついに一人当たりのGNPで米国を追い越すまでになった。ジャパンマネーは世界を席巻し、マンハッタンのビルが次々、日本企業に買収された。日本の地価合計は米国のそれの3倍を上回り米国が三つ買えると、鼻息の荒い時代だった。「米国を見くびってはいけない」と伏見は言った。その言い方には、かつての戦争体験が言わしめているに違いない、確たるものがあった。

日本の産業が国際競争力をつけるようになると欧米諸国、特に米国から「基礎研究ただ乗り論」が出され、日本車の打ち壊し、防衛ただ乗り論、東芝ココム事件とさまざまな形の日本バッシングが始まった。

1991年、ゴルバチョフ政権のソ連が崩壊。
「基礎科学分野の科学者たちが、経済的混乱の中で飢えていて、研究どころか、サバイバルのために時間と金を使って、つぶれていく。その姿が見るに忍びない」(毎日新聞1992年3月31日)と伏見康治は書いた。旧ソ連との共同研究の促進、国際会議への旧ソ連科学者の優先的な招待などに必要な資金を得るため「旧ソ連の科学者救援のための共同研究促進資金」の募金活動を周辺の研究者にも呼びかけ、自ら募金活動に立ち、企業にも頭を下げてまわった。

伏見の念頭にあったのは、自分たちにできることはわずかでも端緒を開けば、後は政府などが動くだろうという期待だった。募金委員長には有馬朗人が就き、ロシアの科学者との交渉などは市川芳彦(プラズマ物理)、高良和武、小沼通二らが当たった。

伏見は前記の新聞記事のなかで書いている。「なぜ科学者(の救済)なのか、一般市民も同じことではないか、と質問されそうである。それに端的に答えれば、科学の国際性である。科学に国境はない。(中略)そういう科学の国際性を認識していただいて、科学者を特別視することを許していただきたい」

(完)

(科学ジャーナリスト 菅沼 純一)

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