サイエンスクリップ

私たちの記憶システムは10分間の軽い運動で活性化する

2019.04.08

藤井友紀子 / サイエンスライター

 私たちは、日々身の回りで起きるさまざまな出来事を脳で整理し、細かく記憶している。そのおかげで、朝起きたときから混乱することなく生活することができる。少し違う環境下におかれたときでも、記憶をもとに違いを判断し、適応しているのだ。記憶はまさに私たちが生活するための大切な基盤となっている。その記憶力を手軽にアップさせられないものかと思ったことはないだろうか。それができるらしいのだ。10分程度の簡単な運動で脳が刺激され記憶力がアップするという研究成果を、筑波大学の征矢英昭(そや ひであき)教授らの共同研究グループがまとめた。

海馬を中心とした記憶システムのはたらき

 記憶は長期記憶と短期記憶に分けられる。自分が経験した思い出などの「エピソード記憶」や学習で得た知識、運動や楽器の演奏など体で覚えるものは長期記憶にあたる。一方、電話番号を聞き取ってメモするまでの一時的なものは短期記憶に分けられる。今回、研究チームが行ったのは、エピソード記憶の実験だ。

 記憶には、脳のほぼ中央に位置する海馬が深くかかわっている。目や耳、鼻などから入ってきた記憶のもととなる身の回りの情報は、大脳の表面を覆う大脳皮質から海馬に入力される。海馬内では「歯状回」「CA3領域」とよばれる部位を通り、再び大脳皮質へ出力する。この一連の神経回路が働くと、外界から得た情報が「記憶」となって脳に残る。海馬は脳のいろいろな部位からの指令を受け、その情報を整理し記憶にかかわるシステムを働かす役割をもっている。

 脳全体には約1000億個の神経細胞があり、複雑な神経細胞ネットワークを形成し情報を伝えている。近年まで、脳の神経細胞は減少するのみで新たに生まれることはないとされてきたが、歯状回では、運動することで新しい神経細胞が生まれることがわかってきた。新しく生まれた神経細胞が既存の神経回路に組み込まれることで、学習・記憶力を機能的に向上させると考えられている。

「高磁場MRI」で脳の活動を解析

 これまでに研究グループは、独自に開発した手法と装置を使ってラットやマウスに運動させ、一過性の低強度運動が歯状回を含む海馬の神経細胞を活性化し、学習・記憶力が向上することを確認している。

 それなら、ヒトではどうだろう。ヒトにおいても、一過性の低強度運動によって海馬、とくに歯状回が活性化し、記憶力が高まるのだろうか。そこに関心があった。しかし、ヒトの海馬は脳の深部にあり、小さく複雑な形をしているため、その活動状況を細かく調べるのが難しかった。

 そこで今回の研究では、米カルフォルニア大学の共同研究グループが開発した高磁場MRIを使った。MRIは「磁気共鳴画像装置」の略称。強い磁石などを使って体の内部を撮影する装置だ。「高磁場」というのは、その磁石が強いことを意味している。高磁場MRIは、人間ドックなどで使われる医療用のMRIと基本的には同じ装置だ。医療現場では磁場強度が1.5テスラのものが主に普及しているが、今回の高磁場MRIは3テスラで磁石が強い。そのため、神経活動を短時間で、しかも高解像度で撮影できる。

「似ているが少し違う」を見分ける記憶実験

 研究グループは、健常な若い成人36人それぞれに、運動条件と安静条件の両方の実験を行った。運動条件のときは、自転車をこぐような10分間の「ペダリング」運動をしてもらった。あらかじめ実験参加者ごとに計測した最大酸素摂取量に基づき、その30%になるように運動負荷をかけた。これは、ストレスと感じずに、かなり楽だと感じる程度の超低強度の運動だという。一方で、安静条件のときは運動せずに10分間、そのまま座っていてもらい、どちらも5分後に記憶テストを行った。

 記憶テストでは、目から入った情報を細かく記憶し、後の判断に生かせるかどうかを調べた。日常生活で目にするブロッコリー、リンゴ、ヒマワリの花などの写真を何枚か見せた後に、それと「まったく同じ」または「似ているが少し違う」写真をランダムに提示した。その際に、「まったく同じ」「似ているが少し違う」「初めてでてきた物体」の三つの選択肢の中から答えてもらった。記憶力の評価は、似ている写真に対して、「似ているが少し違う」と正しく区別できた割合から判断した。

図1 実験の概要A:運動条件(軽運動10分)と安静条件(座位10分)の後、記憶テストを行った。同時に、MRIで脳の活動を測定。B:実験の具体例。まず、ブロッコリー、ヒマワリの花などの写真を見せる。その後、「まったく同じ」または「似ているが少し違う」写真を提示し、以前に見せた類似の写真と比べて、それを正確に区別できた割合から記憶力を評価した。(図はいずれも筑波大学・征矢研究室提供)
図1 実験の概要
A:運動条件(軽運動10分)と安静条件(座位10分)の後、記憶テストを行った。同時に、MRIで脳の活動を測定。
B:実験の具体例。まず、ブロッコリー、ヒマワリの花などの写真を見せる。その後、「まったく同じ」または「似ているが少し違う」写真を提示し、以前に見せた類似の写真と比べて、それを正確に区別できた割合から記憶力を評価した。(図はいずれも筑波大学・征矢研究室提供)

 実験の結果は、運動条件のときの方が安静条件のときよりも正答の割合が高かった。つまり、超低強度の運動をしたほうが、安静にしていたときよりも写真の細かい違いを見分けて記憶できたといえる。

 また、記憶テストを行っているときに、脳の活動を高磁場MRIで測定した。そして、似ている写真を正しく区別できた際の海馬内の各部位と周辺皮質の反応について解析をおこなった。神経活動が活発になった部分を高磁場MRIでとらえて、記憶力を高める基盤となる脳の部位を知るためだ。

 解析の結果から、超低強度の運動を行ったときは海馬歯状回と周辺皮質の活動が活発になることが分かった。周辺皮質は、感覚情報を受け渡しする領域のため、海馬歯状回と周辺皮質との情報伝達が活発になることで記憶力が向上したと考えられた。

 超低強度の運動は、ラットやマウスでの実験のときと同様に、ヒトでも海馬を中心とした記憶システムを活性化して記憶力を高めることが分かった。

図2 脳内メカニズムの解析A:脳を横から見た図。赤が海馬、水色が海馬周辺の皮質領域を模式的に表したもの。B:Aに示した断面で脳を前から見た図。この研究で解析した海馬の各部位と周辺皮質を色分けして示した。C:海馬歯状回と、海馬に情報を受け渡しする周辺皮質の情報伝達が活発になった。
図2 脳内メカニズムの解析
A:脳を横から見た図。赤が海馬、水色が海馬周辺の皮質領域を模式的に表したもの。
B:Aに示した断面で脳を前から見た図。この研究で解析した海馬の各部位と周辺皮質を色分けして示した。
C:海馬歯状回と、海馬に情報を受け渡しする周辺皮質の情報伝達が活発になった。

ヨガや太極拳、ウォーキングで気持ちよく記憶力アップ

 超低強度の運動で記憶力がアップするのなら、もっと頑張ってハードな運動をたくさん行えば、記憶力がさらにアップするのではないかと思うかもしれない。研究グループはこれまでに、ハードな運動を長期に行う効果(慢性効果)を動物で実験している。残念ながら、ハードな運動を長く行っても、一過性の低強度運動で見られたような記憶力向上の効果は見られなかったそうだ。その原因について、「ハードな運動を繰り返し行うことによるストレスの影響がある」と考えているそうだ。

 ところが、ハードな運動も長期でなく一過性のときは、ストレス反応が記憶力を向上させることも考えられるという。ハードな一過性の運動が、低強度の一過性の運動に比べてより大きな効果があるかどうかは、今後の検討課題の一つだと語る。

 また、研究グループは、運動のスタイルについて、「運動強度が同等でも、運動による気分の変化が脳への効果を左右する可能性がある。ヨガや太極拳のような生活・文化に根ざした運動や、自然の中で気持ちよく行うゆっくりとしたウォーキング、仲間と音楽に合わせて行う簡単な体操やダンスなどの軽い運動は、より効果があるかもしれない」と仮説を立てているそうだ。楽しく気持ちよく記憶力を高めながら、今後の研究成果にも注目したい。

論文は、米国科学アカデミーの科学論文誌「PNAS(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)」で公開された。

(サイエンスライター 藤井友紀子)

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