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緊急寄稿「分かりやすい広報の重要性再認識 - 茨城県とJ-PARCも大被害」(鈴木國弘 氏 / J-PARCセンター広報セクション リーダー)

2011.03.30

鈴木國弘 氏 / J-PARCセンター広報セクション リーダー

J-PARCセンター広報セクション リーダー 鈴木國弘 氏
鈴木國弘 氏

 3月11日、午後2時46分、宮城県沖を震源とするマグニチュード(M)9.0の大地震が発生した。J-PARCのある茨城県東海村でも震度6弱を観測した。さらに30分後の午後3時15分には、茨城県沖を震源とするM7.4の地震も発生し、茨城県内の被害がさらに拡大した。

 東北3県(岩手、宮城、福島)に甚大な被害を与えた大津波は、隣接する茨城県沿岸にも押し寄せた。県北部の北茨城市では6メートルを超える津波による死者、行方不明者もあり、多数の家屋が流され、倒壊した。県最南端の神栖市も道路陥没や液状化の被害に加え、5メートルに達する津波で各所に被害が及んだ。その被害地域である神栖市で14日に計画停電が実施された。やっと復旧した電気がたちまち切られてしまい、暗闇の中、不安な気持ちで過ごす被災者の気持ちは、いかばかりであったろうか。

 橋本昌茨城県知事による首相と東京電力に対する強い抗議により、翌日から計画停電エリアからは除外されたが、茨城県は被災地として忘れられているのではないか?という想いが県民の間に広がった。

 テレビではほとんど報道されないが、茨城県は東北3県に次ぐ被害を受け、死者20人、行方不明者1人(3月25日現在)、全半壊家屋約1,800戸、一部損壊家屋は約4万3千戸に上る。また約67万戸(3月16日時点)に上る断水は、すべての被害県で最多である。常磐自動車道は何とか復旧したが、鉄道の被害は深刻で、県南部の土浦から北はすべて不通である。東北の被害の甚大さに比べれば、何とか自分たちでやらなければと、それぞれが知り合いや近所の方たちと協力しながら対応しているのが茨城県の現状だ。

 そのような状況下であるにもかかわらず、3月14日には真っ先に福島県からの原子力発電所事故による避難者約1万5千人の受け入れを表明している。津波による大きな被害と、深刻な原発事故により東北3県に注目が集まっているが、隣接する茨城県も大きな被害を受けた被災地であるということを、ぜひ全国の皆さんに分かってほしいと思う。

茨城県といえば、東海村をはじめとする原子力研究機関が集積している場所である。日本原子力発電東海第二発電所や、日本原子力研究開発機構などの原子力関連施設は地震後直ちに停止状態になり、安全上の問題は全く生じていない。

 日本原子力研究開発機構と高エネルギー加速器研究機構が共同で建設・運営しているJ-PARC(大強度陽子加速器施設)は、地震発生時はリニアック(直線加速器)のみが運転を行っており、地震発生とともに直ちに自動停止した。J-PARCエリアには津波の影響は無く、負傷者も出ず、放射線に関する問題も生じなかった。

 当日J-PARCには、千葉県松戸市にある千葉県生涯大学校東葛飾学園のお年寄りの皆さん約40人が見学に訪れていた。J-PARCには、全国から年間約8千人を超える見学者が訪れており、J-PARC広報セクションでは、1日で2-3組の見学者に対応して施設の説明や案内などをしている。当日午前中にも新潟県立直江津中等教育学校の中学生約130人が見学を終えたばかりであった。

 地震発生時、私は会議室で千葉県生涯大学校の皆さんにJ-PARCの概要について説明をしていた。突然、強い地震の横揺れを感じた。不安になる見学者を落ち着かせようと、建物は耐震性があり安全だと話したが、今まで経験したことがないほど強い、そして長時間の揺れが継続した。その時思い出したのが、ある建築士から聞いた「天井には耐震基準がない」という言葉であった。

 とっさに皆さんに机の下に隠れるように指示をした。会議室であり、多数の机が並んでいるため全員が隠れることができた。それを確認して私も隠れようとしたまさにその時、天井のプロジェクターが落下するのが見えた。私が机の下に入ると同時に、会議室の天井がすべて落下した(写真参照)。まさに間一髪であった。

すべて落下した会議室の天井(蛍光灯やケーブルが垂れ下がっている)筆者が説明のため立っていた辺り(脱出の際に石こうボードを割った)
すべて落下した会議室の天井
(蛍光灯やケーブルが垂れ下がっている)
筆者が説明のため立っていた辺り
(脱出の際に石こうボードを割った)
会議室の机の上に落下した天井。部屋の左右にかろうじて避難できるスペースが残されていた筆者が説明のため立っていた辺り(脱出の際に石こうボードを割った)
会議室の机の上に落下した天井
部屋の左右にかろうじて避難できるスペースが残されていた

 その後も揺れは続き、さすがにこの建物は大丈夫かと思い始めたころ、やっと揺れが収まった。机の下からはい出して目にした光景は忘れることができない。とにかく全員の無事を大声で確かめた。幸いけが人はいなかった。被害の大きさから考えると、奇跡的であったと思う。

 お年寄りということもあり、救出は慎重に進めた。まず全員に机の下をはって部屋の左右に移動してもらい、出口に近い側の皆さんから退出していただいた。しかし非常口は落下した天井でふさがっていて、出口に遠い側の方は出られない。そのため部屋前方に落下した天井の石こうボードを踏み割り、骨組みを曲げて、迂回(うかい)する避難通路を確保し、足下の安全を確認しながら一人一人慎重に外へ誘導した。

崩れ落ちた入り口横の壁机の上に落ちた天井と蛍光灯
崩れ落ちた入り口横の壁机の上に落ちた天井と蛍光灯
椅子を使って、落ちた天井の石こうボードを割って通路を確保し、脱出した
椅子を使って、落ちた天井の石こうボードを割って通路を確保し、脱出した

 私一人で対応したので時間はかかったが、皆さんが落ち着いて行動してくれたおかげで、全員無事に避難することができた。もしこれが午前中の100人を超える中学生の見学時であったらと思うと、あらためて非常時の対応については十分に検討して決めておく必要があると実感した。

 茨城県沖を震源とするM7.4の大きな余震が起きたのは、建物の外に出て全員の無事を確認した直後だった。救出後だったので大きな混乱はなく、皆さんが乗ってこられた観光バスを送り出したものの、今度は電話などが全くつながらない。後日、約16時間かけて全員無事に松戸へ着いたとの連絡をいただいた時、やっと安堵(あんど)した。中学生たちも一晩かけて無事新潟に帰ったと連絡を受けた。

 落ち着いてから会議室の様子を見ると、よくこれでけが人が一人もなかったと思うほど、すさまじい状況であった。数多くの机が落下してきた天井を支える役目をしてくれたようである。地震時、机の下に隠れることがとても重要であることにあらためて気づかされた。救出時にどこか引っかけたのであろうか、背広の背中には大きなかぎ裂きの跡が残ったが、今後の教訓としてその背広は大事に保管しておこうと思う。

 J-PARCは人的被害もなく、津波の被害もなかった。しかし建物周囲や道路は大きく陥没し、装置やタンクなどが傾いているものもある(写真参照)。施設は安全に停止しているが、各機器や装置の被害状況の把握が進むにつれ、ライフラインも含めて施設は大きな被害を受けていることが分かってきた。まだ余震も頻発しており、鉄道の復旧も進まずガソリン不足も深刻なため、出勤できる一部の者が懸命に対応している。今後の詳細な施設点検を踏まえて修復計画を検討していく必要があるが、現時点では、J-PARCの再稼働までにかなりの期間を要するものと予想している。

ケーブルラックや空調ダクトが傾斜傾いた空調機屋外ユニット
ケーブルラックや空調ダクトが傾斜傾いた空調機屋外ユニット
地盤沈下により液体窒素やヘリウムガスのタンクが傾斜
地盤沈下により液体窒素やヘリウムガスのタンクが傾斜
大きく陥没した道路建物玄関前の陥没
大きく陥没した道路建物玄関前の陥没

 また、福島の原子力発電所事故の影響も深刻になり、デマが流れたり風評被害も出始めている。政府から発表される事柄も、原子力発電や原子炉についてよく知らない多くの人たちにとっては、どのように理解したらいいのか分からないので、「こわい」という思いだけが残ってしまうのではないだろうか。

 日ごろから少しでも、重要な電気の供給源である原子力発電について関心を持ってもらえていたら、いや、関心を持ってもらえるようにわれわれが分かりやすく説明していれば、人々の不安を少し解消することができたのではないだろうか。原子力発電のみならず、最近言われているように、さまざまな科学技術についてきちんと理解できるような、一般の方々に向けた分かりやすい広報の重要性があらためて再認識されるのではないかと思う。

 J-PARCは関係者および各機関のご協力を得ながら復旧に全力で取り組んで行く所存でありますので、今後の復旧に向けて皆様のご理解とご支援をお願いします。

J-PARCセンター広報セクション リーダー 鈴木國弘 氏
鈴木國弘 氏
(すずき くにひろ)

鈴木國弘(すずき くにひろ)氏のプロフィール
茨城県立水戸第一高校卒。1979年茨城大学工学部金属工学科卒、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)入所。那珂研究所で核融合実験施設JT-60、関西研究所で大型放射光施設Spring-8、東海研究所で大強度陽子加速器施設「J-PARC」と、一貫して大型研究施設建設プロジェクトの全体調整、マネージメント、広報に携わる。2008年から現職。地元と一体となったJ-PARC広報活動が評価され、10年日本原子力学会 社会・環境部会賞「優秀活動賞」を受賞。学生時代に所属した落語研究会で培われた軽妙な語り口で難解と敬遠されがちな最先端研究をかみ砕いて説明、新聞、テレビなどのほか全国各地の講演で科学や研究の面白さ、重要性を伝えている。

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