仕事はさまざまだが昔、同じ場所に赴任し、何らかの形で原子力利用にかかわったことがある。そんな経験を共有する仲間と毎年、この時期1泊旅行をしている。22回目になるそうだが、今年は福山に集合して貸し切りバスで「しまなみ海道」を渡り松山に、というコースだった。まず「しまなみ海道」の途中にある大三島で「大山祗神社」を見学する。
全国の国宝・重文に指定された武具類の8割がある(同じパンフレットには「全国の国宝・重文甲冑の8割」という記述も)という国宝館に驚く。何体もあるよろいも立派だ。さらに、これを実際に振り回すことができたのだろうか、と思うような大太刀が何本も展示されている。
地図で一目瞭然とはいえ、この島の見晴らしがよい場所から眺めるとあらためてよく分かる。この辺りは海に島が散在しているというよりも、島の間に海がある、ということだ。島と島とを橋で結べば陸続きに。四国、中国地方双方の人たちが昔から抱いていた思いに違いない、ということも…。
松山では、道後温泉のそばにある立派なホテルで一泊する。翌日、松山城など市内観光の後に、松山市の南南西40キロほどにある内子町を訪ねた。作家、大江健三郎氏の故郷で、かつては和紙と木蝋(もくろう)の生産で栄えた町という。しばしば停電があるので大きなろうそくは必需品。そんな少年時代を送りながら、ろうそくが何から作られるのかこれまで考えてみたこともなかった。当時使っていたのが洋ろうそくか和ろうそくか知らないが、ここで生産されていたのは無論、和ろうそくだ。原料はハゼノキと初めて知る。
ろうそくという産業が、かつてこの地域でどのような位置づけにあったか。国の伝統的建造物群保存地区にも選定されている昔の面影を残す町並みから十分伺える。中山道に何カ所か旧宿場町に似たなつかしい家屋が並ぶ。中で最も感心したのは「内子座」という劇場だった。大正天皇の即位を祝い、大正4(1915)年、地元有志の出資により創建された、というのにまず感心する。昭和になってイス席に換えられるなど何度か改修を経た後、升席、桟敷を持つ昔の形に復元されている。回り舞台、花道も備えた木造2階建て瓦ぶき入母屋造りの堂々たる劇場だ。
国の補助金などあてにしようにもそもそもなかったのだろうが、地域の有志のお金で建て、なおかつ地域の人々の娯楽、交流の場として維持されて来たというのが、素晴らしい。
松山駅で解散し、帰りはJRで丸亀を経由して瀬戸大橋を渡り岡山へ。初めてのルートをとったので、瀬戸内海の中央部を一回りしたことになる。四国側から眺める瀬戸内海の印象も、島が多いということだった。この辺りで生まれ育った人たちは、自分の生まれ育った土地に対する思いが、他の地域とだいぶことなるのではないだろうか。ふと、そんなことを思った。
トム・ソーヤーのようにミシシッピー川をいかだで下ったら無人島があって…。ロビンソン・クルーソーのように航海中に船が難破して無人島にたどりついたら…。少年時代に想像することといえば、どうにも非現実的な話ばかりだった。毎日、水平線まで、島影どころか会場を行き交う船の姿もほとんど見られない。そんな太平洋を眺めて育ったせいではないか。もし、瀬戸内地方で育ったらどうだろう。目と鼻の先にある島や本州、四国にはどのような世界があるのか、などもっと地に足の付いた想像力が育まれたのではないか。
夕暮れの瀬戸内海を眺めながらそんなことを思ったのは、ちょっと前に木下恵介監督の古い映画「なつかしき笛や太鼓」(1967年)を見たばかりだったからかもしれない。
四国・丸亀市の小さな島「小手島」に赴任した教師が運動用具もほとんどない学校の生徒たちにバレーボールを教え周辺の島の合同運動会で見事、優勝するという分かりやすい作品だった。隣り合う瀬戸内海の島でも相当な格差があるという現実の重みがあって成り立つ話である。話は映画がつくられたさらに10数年前、昭和29(1954)年ごろの時代を描いたものというから、考えてみれば編集者の小学校低学年時代も素足でバレーをやった映画の少年、少女たちと似たようなものだったが。