
肉体を使って力と技を競う「スポーツ」。近年は科学技術を取り入れることで競技技術を向上させている。そんな最先端のスポーツ事情を「スポーツバイオメカニクス」という観点から探ってみた。
「スポーツバイオメカニクス」とは?
これまでスポーツの習熟といえば、アスリートとコーチの知識と経験に基づく主観的、試行錯誤的な方法によることが多かった。しかし近年は、科学的な視点からスポーツを分析する「スポーツ科学」という分野が確立。アスリートの知識と経験を科学により裏付けることで、より客観的で効率的に習熟することが可能になってきた。
「バイオとは『生体』、メカニクスとは『力学』。これを組み合わせてできた言葉が『バイオメカニクス(生体力学)』です。力学や解剖学を応用して、生き物の構造や運動を解析する学問で、それをスポーツに応用したものが『スポーツバイオメカニクス』です」
人間の動きも自動車の動きも、力学的には同じもの。しかし人間の体は、力学だけでは説明できないという。
「例えば階段の上り下り。力学では、階段を上るのはプラスの仕事。体を持ち上げるのでエネルギーを使います。反対に下りるのはマイナスの仕事。体を下ろすのにエネルギーは必要としません。しかし実際は、人が階段を下りるときも体が落ちすぎるのを防ぐエネルギーは必要ですよね? そこで必要となってくるのが『スポーツバイオメカニクス』という学問なんです」
そもそも「運動神経」とはどのようなものなのか?
「スポーツ」も「九九」も要は脳の神経回路
スポーツバイオメカニクスで体の構造や動きを解析し、そのデータをうまく取り入れることができれば、子どものときからつきまとう運動神経の良しあしといった問題は解消できるのだろうか?
「そもそも『運動神経』とは、脳から筋肉に通じる神経の一部のこと。運動することの『うまい下手』とは関係がありません」と深代さん。私たちが日ごろ使っている「運動神経がいい」という言葉は、バイオメカニクスの考え方では不適当ということだ。
「運動の『うまい下手』を分けるのは、脳に運動を司る神経パターンができているかどうか。脳内の神経には電気信号が通るのですが、同じ神経回路に電気信号が繰り返し通ることで記憶ができます。運動がうまくできるということは、脳内で電気信号をコントロールして主要な筋肉にタイミングよく適切に伝わることにより思い通りの動きができるということ。九九ができるようになったり、すらすらと漢字が書けるようになったりするのも同じ仕組みです」

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室
生まれつき運動が苦手な人はいない
このように運動のうまい下手は、生まれる前から決まっているのではなく、生まれた後の環境、つまり練習で決まる、と深代さんは言う。
「よく『運動神経が悪いのは、親も運動が苦手だから』と遺伝のせいにする人がいますが、これは間違った解釈です。自転車に乗れるようになるまで、繰り返し練習しますよね? これは遺伝ではなく、練習を重ねるから乗れるようになるんです。練習期間には個人差がありますが、練習を重ねて乗れるようになるというところは誰でも一緒です。運動ができないことを遺伝のせいにして途中であきらめてしまうと、学びのチャンスを逃してしまいます」
数回でできる人もいれば、100回かかってできる人もいる。時間がかかってもできるまでやれば、1回でできた人と結果は同じ。それをできないのは遺伝のせいだと途中で練習を投げ出してしまうと、できるものもできなくなるということなのだ。
スポーツの“未来”を明らかにする科学
バイオメカニクスで変化したスポーツ
運動能力を高めるためには、繰り返し練習をすることが不可欠。ではスポーツをするうえで、バイオメカニクスをどのように取り入れればいいのだろう。
「スポーツバイオメカニクスによって動作を分析すると、うまい人がどのようにしてその動作を行っているのかが理論的に分かります。それが明らかになったら、その動作に到達できるような反復練習のメニュー『ドリル』を提案します。ドリルを行っていれば、知らぬ間に理想の動作に近づくことができるというわけです。これまでのコーチは、経験に根ざしていたので目標とするパフォーマンスの高い動作が分からないまま選手に教えることがありました。求めるべき『解』が分からない状態だったのです。しかしバイオメカニクスを取り入れることで、これまでのスポーツでは十分に把握できていなかった『解』が分かるようになりました。『解』が分かれば、あとはそこを目標に教えればいいのです」
従来のスポーツ界では、過去の映像と現在を比較して研究することで選手の技術を向上させてきた。しかしバイオメカニクスを取り入れることで、選手のやるべきことがさらに明確に見えてきたのだ。
「これまで“過去”と“今”を比べることはできました。しかし“今”と目指すべき“未来”を比べることは科学にしかできません」
デジタルシミュレーションが可能性を広げる
この「解」を求めるために使われている機器は、主に人間の動作をデジタルデータとして記録する「モーションキャプチャー」、体と地面のあいだに生まれる反力を計測する「フォースプレート」、筋肉から発生する電位を計測して筋肉の活動を調べる「筋電計」の3つ。これらのデータを基に、トップ選手がどのように動きをつくっているかを知ることができる。これを逆ダイナミクスという。一方、コンピューター内に人間のモデルを作り、シミュレーションを行っていく方法も並行して試みる。
「シミュレーションできると、さまざまなメリットが生まれます。通常のトレーニングではグラウンドなど広い空間が必要となりますが、コンピューターならその必要ありません。また、選手にトレーニングでどこまで負荷をかけていいのか、そのギリギリを見極めることもできます。データから作り出したモデルなら、ケガをさせる心配がありませんから」

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

ボールをキックする動作を解析することで、筋肉の働きや腰部の動きがどのように調節されているかがわかる
画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

短距離選手のデータ収集・解析によって、股関節や腰部、下肢が走りにどのように作用するかが明らかになった
画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室
トップアスリートを支える「アーツ&サイエンス」とは?
アスリート指導に貢献するテクノロジー
スポーツにバイオメカニクスを取り入れることで、選手に的確な指導が行えるようになったが、このことはトップアスリートにどのような影響を与えているのだろう。
「もしバイオメカニクスによってトレーニング環境が完璧に整えられるとしたら、あとは筋肉の質や骨格の長さといった遺伝的要因の勝負になります。しかし、今も将来も完璧なトレーニング環境を整えることなどできません。だから、スポーツにはさまざまな可能性があって面白いのです」
テクノロジーが進化することで、トレーニング環境も進化する。アスリートの成績も環境がどれだけ整うかで変わってくるということだ。
「スポーツ科学の分野は『アーツ&サイエンス』だと私は考えています。直訳すると『芸術と科学』となりますが、この場合のアーツとは『もしかしたらそうなるかも』と“予想”を立てること。そしてサイエンスは『こうしたらこうなる』という“方法”を指します。つまりスポーツ科学では『こうすれば必ずこうなる』という確実な“方法”で指導した後に、『もしかしたらこの選手はこうするともっとよくなるかも』という“予想”を立てて指導する2層構造になっているということです。けれど昔は“科学”がなくて“予想”だけで行っていたので失敗も多かったのです」
昔は選手に科学的根拠のない練習をさせていて、たまたまうまくいった選手だけが残った。それが今では、科学をベースにした理論的な練習を行えるようになり、脱落する選手が少なくなったという。

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室

画像提供:東京大学スポーツバイオメカニクス研究室
データ分析の「解」は研究者からコーチへ
では科学的に解析した結果は、どのようにアスリートにフィードバックされ、成績の向上につながっていくのだろう。
「体を動かすタイミングは研究データを見ればわかります。動かす元になる筋肉のことが分かれば、おのずとトレーニング方法も分かってきます。ですが選手へのフィードバックは、解析した研究者が直接行うのではなく、コーチを通じて行っています」
データ分析で出た「解」をコーチに渡し、コーチはそれを自分の言葉で伝える。これによって成績向上につながるだけでなく、コーチと選手との信頼関係も深まるという。
楽しさと達成感がスポーツ上達の鍵

小中学生にバイオメカニクスを取り入れるためには
アスリートの成績向上に欠かすことができない「スポーツバイオメカニクス」。これを小中学生に取り入れて、上達させる方法はあるのだろうか?
「うまくなるには『反復練習(ドリル)』を行う必要があります。先ほど運動神経について話した際にも言いましたが、繰り返し練習することで運動能力は向上します。それも好きなことをやっていくことで持続できます。子どもは嫌いなことは続きませんからね」
ドリルを行って、今までできなかったことができるようになれば楽しくなる。そうすればまた練習する。これを繰り返していくうちに、上達していくのだという。
「ドリルを行う際は、まず親がやって見せるというのもいい方法です。サッカーだったら、リフティングを一緒にやってみる。それも練習を楽しむためのひとつです」
しかし楽しいと思えるようになるまでには、苦しいこともある。何回練習してもできないとつらい思いをするけれど、その先に楽しいことが待っている。頑張ったからこそ、達成感を味わえるということも伝えておきたい。
「達成感を感じてもらえるようにしてあげるのも、大人の役割だと思います。例えば運動会の徒競走。毎年ビリの子どもでも、昨年と今のタイムを比べれば速くなっているはずです。毎年運動会でビデオを撮って、ピッチとストライドを見比べるとか、昨年と同じ順位でもタイム差がトップと縮まっているなど、達成感を感じられるようなものを与えてあげる。そうすればそれが楽しさにつながり、運動会も好きになるのです」
遊びの動きがスポーツの基本動作
このようなドリルを行うのは人生の中でいつでも可能ですが、効果的な年齢は、4歳から6歳だという。
「脳が一番発達するこの時期は、神経回路も急激に作られるので、運動能力も飛躍的に向上します」
昔の子どもはメンコや鬼ごっこなど、体を動かす遊びを通して、運動の基本動作を学んでいた。しかし最近は、子どもが体を動かして遊べる環境が少なく、遊びの中で動作を学ぶことが難しくなっている。本来、新しい動きを習得することは、新たな知識を得ることと同じように楽しいこと。速く走れるようになったり、ドリブルがうまくなったりするなどの成功体験を得ることによって、練習を継続しようという気持ちを持たせることができたら、トップアスリートも夢ではないかもしれない。

地面にお尻をついた状態で、交互にお尻を浮かせながら前進する。背骨と体幹を意識することで、バランス感覚が鍛えられる。

速く走るためには、足で素早く地面を蹴ることが大事。両手を後ろに振って高くジャンプすることで、そのコツが身につく。

深代千之(ふかしろ・せんし)
東京大学大学院・総合文化研究科・教授。トップアスリートから子どもの運動能力開発まで、幅広い研究を行うスポーツ科学者。日本陸上競技連盟より秩父宮章を受章。日本バイオメカニクス学会会長、(一社)日本体育学会会長、東京体育学会会長も務める。