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レモンでゆっくり、バニラは素早く 香りで視覚が変化することを発見

2021.09.08

草下健夫 / サイエンスポータル編集部

 「レモンやバニラの香りに効果あり」と聞くと、食欲やリラクゼーションなどにまつわる話かと多くの人が思うのでは。ところが、これらが視覚に影響を与えるという意外な研究成果を、国内の研究グループが明らかにした。実験でレモンの香りがすると映像の動きが遅く、バニラでは速く感じられ、脳の働きの変化も確認した。嗅覚が視覚に影響することを発見した基礎科学の成果であると同時に、何らかの形で社会に応用する期待もあるという。

異なる感覚が互いに影響

レモンの香りが視覚に影響?
レモンの香りが視覚に影響?

 映像を見る時に視覚や聴覚、食事する時に味覚や嗅覚などと、脳は異なる感覚を併用し、影響させ合いながら情報を処理している。これは「クロスモーダル現象」と呼ばれている。脳の情報処理はまだまだ謎が多く、ブラックボックスに近い。さまざまな感覚の刺激の入力から何らかの応答の出力に至るプロセスの詳しい解明は、大きな研究課題だ。

 嗅覚が関わるクロスモーダル現象の研究はどうだろう。「『みそ汁の香りで故郷を思い出した』とか『匂いであの頃を思い出した、懐かしい気持ちになった』などと、記憶や感情に影響を与えることは多く研究されてきた」と説明するのは、情報通信研究機構(NICT)未来ICT研究所脳情報通信融合研究センター主任研究員の對馬淑亮(つしま・よしあき)さん(認知科学)。記憶や感情は脳の情報処理プロセスでは、出力に近い段階の働きだという。

 嗅覚の実験は香りの制御が難しいことや、感性を評価しにくいことなどから従来、うまく進んでこなかった。「例えば、香りと共に絵画を見る実験をしても、本当に刺激の入力に近い段階でキラキラして見えたのか、それとも出力の段階で(被験者が実験に対し)気を利かせて『さっきよりキラキラして見えた』と答えたのか。つまり(情報処理の)どの段階によって起こった応答なのかが分からない」(對馬さん)。

 香水で気分を変えたり、アロマセラピーでリラックスしたりする効果があるなど、嗅覚のクロスモーダル現象は至って身近なもの。詳しく知りたいところだ。

脳の働きへの影響も確認

 そこで對馬さんらの研究グループは、香りが視覚に影響を与えるかどうかを確かめようと、NICT発のベンチャー企業が独自に開発した装置などを使って実験を行った。

 まず、20~40歳の男女14人の協力で心理物理実験を実施。レモンかバニラの香りと、無臭の空気を鼻に1秒間、噴射した。香りはそれぞれ強弱の2種類があり、無臭と合わせて空気は計5種類。その直後、多数の点が動く1秒間の映像を7段階の速さに分けて見せ、「速かったか、遅かったか」を主観で答えてもらった。1人当たり実に525回にわたり行った結果、映像の動きが同じでも、無臭に比べてレモンの香りがすると遅く、バニラの香りがすると速く感じられることが分かった。

心理物理実験の概要(左)と結果。香りのついた空気を鼻に噴射した後、多数の点が動く映像を見てもらった。レモンの香りがすると映像の動きが遅く、バニラだと速く感じられた(情報通信研究機構提供)
心理物理実験の概要(左)と結果。香りのついた空気を鼻に噴射した後、多数の点が動く映像を見てもらった。レモンの香りがすると映像の動きが遅く、バニラだと速く感じられた(情報通信研究機構提供)

 では、脳は実際に影響を受けているのだろうか。それを確かめようと、続いて機能的磁気共鳴撮像法(fMRI)を使い実験した。別の12人に装置に入ってもらい、やはり鼻に空気を噴射して映像を見てもらった。すると、レモンの香りでは脳の2つの視覚野の血流量が低下する一方、バニラの香りでは上昇した。これらの視覚野は情報処理の最も初期に働く領域「V1」と、動きに関わる領域「hMT」だった。

 2段階の実験はこうして、心理データと生理データが整合する形となり、嗅覚と視覚によるクロスモーダル現象の存在を突き止めた。

香りに応じて脳の視覚野の血流量が変化した実験結果(左)と、脳を後ろ側から見た図。緑色は最も初期に情報を処理する視覚野「V1」、赤色は主に動きに関わる「hMT」(情報通信研究機構提供)
香りに応じて脳の視覚野の血流量が変化した実験結果(左)と、脳を後ろ側から見た図。緑色は最も初期に情報を処理する視覚野「V1」、赤色は主に動きに関わる「hMT」(情報通信研究機構提供)

印象とは逆の結果に

 感覚的には何となく、レモンは酸っぱさで頭がシャキッと覚醒して物事の進みが速まり、バニラは甘くまったりして遅くなりそうな気もするが…今回、こうした印象とは逆の結果になったのは興味深い。ちなみに別のグループによる心理学の研究で、レモンの印象を香りに限定せずに「速いか、遅いか」と尋ねた際には、多くの人が「どちらかといえば速い」と答えたという。

 なお、無数にある香りから実験にレモンとバニラを選んだのは、かなり直感的なことだったという。まずレモンの採用を決めた上で「すっきりさわやかな香りと逆の、甘ったるい重い香りにすれば、逆の効果が出るのでは」とバニラを選んだ。今後、他の香りも試すかどうかは「やるかもしれないが、ある程度に絞り、目的を決めなければいけないと個人的には思う」と對馬さん。

 成果はスイスの神経科学の専門誌「フロンティアズ・イン・ニューロサイエンス」に8月2日に掲載され、情報通信研究機構が19日に発表した。研究の一部は科学技術振興機構(JST)の研究成果展開事業「リサーチコンプレックス推進プログラム」の一環として行われている。

仕組みの解明は大きな宿題

 研究グループは、今回の成果はクロスモーダル現象や人の感覚、脳の情報処理の特性を知る上で重要なものという。これまで難しかった嗅覚の実験や、ほかの感覚に与える影響の研究の先駆的な例となった意義も強調する。一方、ではどうして香りで映像のスピード感が変わるのだろう。その仕組みの解明は大きな宿題として残った。

 この発見は基礎研究にとどまらず、産業を通じてバーチャルリアリティー(仮想現実)やエンターテインメントなどに応用することも視野に入れて研究を続けるという。

 そう聞いてさしあたり思いつくのは、映画やテーマパークで場面に合わせてタイミング良く香りを送り出すといった利用だ。これに対し對馬さんは「それもあり得る活用法だが、そのように既存の物につけ加えるだけでなく、そもそもこの現象ありきでサービスを考え出してもよさそうだ」。情報通信技術の発達も背景に、従来の発想の延長線にない根本的に新しいユニークな“何か”が将来、生まれるかもしれない。

 香りという基本的な感覚を見つめ直して得られた、今回の成果。對馬さんは「香りで何かが変わるのではと、子供の自由研究みたいな発想で夢中でやってきた」と振り返る。それが具体的にどう役立つのか、一般にはまだピンとこない。ただ逆にいうと、役立つかどうか以前に面白いからこそやり、それがアイデア次第でどう花開くか分からないところに妙味がありそうだ。

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